公益社団法人相模原市病院協会会長の黒河内三郎さん(92)は長野県高遠の出身。日本医科大学を卒業後、母校の付属病院をはじめいくつかの病院で勤務医を経験。1959年に総合相模更生病院の外科医長に就任して相模原の地を踏んだ。専門の消化器外科で敏腕を振い、副院長を務めたあと、64年に黒河内外科医院(同市南区豊町)を開業。現在は病院会長のほか医療法人社団仁恵会黒河内病院の理事長を務めていている。老境を迎えてもかくしゃくとした黒河内さんの足跡をたどる。(編集委員・戸塚忠良/2015年8月1日号掲載)
■父親の導き
桜の名所として知られる高遠町の酒蔵の三男に生まれた黒河内さんは、初めから医学を志したのではなかった。早大商学部に進学して学生生活を始めてからわずか数カ月後、父・義夫さんが「退学してどこかの大学の医学部に入りなおせ」と強く迫った。「1年浪人しても、先に行って1年長く生きればいいではないか」と諭されたのである。
医学の知識も医者になりたいという望みも持っていなかった息子は「なぜ?」と疑問を抱きつつも、「医大に入るのに必要な勉強はさせてやるから」という父親の言葉に従い、医学部専門の予備校に入って1年間猛勉強し見事、日本医科大学に合格した。
黒河内さんは「その後の私かあるのは父のおかげ。墓参りをするたびに涙があふれます」と今も声を震わせる。若い日の経験から、父親からの以心伝心の教えとして、親は自分の経験と知識を生かして我が子を教え導くべきことを胸に刻み込んだ。
ちなみに、義夫さんは当時の日独伊三国軍事同盟に反対で米英との関係を重視する考えを持っていたため、戦時中は特高に目を付けられたが、「終戦後は街の人たちに乞われて4年間町長を務めたという。
■外科医に
大学での最初の3年間はもっぱら一般教養の勉強。哲学、心理学、ドイツ語から源氏物語、音楽史、美術史に及んだ。医学らしい勉強はカエルの解剖1回だけ。「人間形成の3年間でした。中でもドイツ語で読んだアンデルセンの『絵のない絵本』は強く心に残りました」と回想する。
医学部に進んで消化器外科を専攻。「勉強するうちにどんどん面白くなり、これで行こうと心を決めました」という。
終戦後間もない48年に卒業し、翌年国家試験に合格。50年に母校の外科医局に入り、のちに同医局長を務めた。さらに北海道の炭鉱町赤平の病院、山形県酒田市の公立病院などに赴任し、胃のガンや潰瘍の切除手術などに腕を振るった。
そのかたわら、胃ガンの免疫反応と早期発見の学問的研究に力の限りを尽くした。この分野ではわが国における先駆的な研究の一つとされており、58年に医学博士の学位を取得した。
■相模原へ
翌59年、横浜線相模原駅前に立地する総合相模更生病院の外科医長に就任した。「「ある教授から相模原はこれから大きく発展する。あそこで好きなようにやってみろと励まされたことが支えになりました」と語る。
朝から晩まで熱心に患者を診察する生活が続き、先輩外科医が黒河内さんの手術の手際の良さをほめたという評判も広まって、赴任して間もなくの評判は高まった。
この当時、黒河内さんが医師として患者にどう向き合っていたかを物語るエピソードがある。
当時、どこでも病院の事務はお役所式。時間になればどんどん窓口を閉めて会計待ちの患者を待たせておくのが当たり前だった。ある日の昼、ちょうどそんな現場に居合わせた黒河内さんは、「これでは患者さんが気の毒」と腹を立て、閉まったカーテンを開けて手続きをするよう事務方に促した。
患者に寄り添うという心のありようは、若い日、子供の症状についての医学上の説明に耳を傾けていたある重症患者の母親が、ふと頭を上げて「先生はお子さんをお持ちですか」と声を絞り出したときの衝撃が忘れられないからだ。その言葉には、我が子への母の思いを医療に携わる人たちに決して忘れてほしくないという痛切な響きがあった。この響きは今も胸の中に残る。
■多忙な日々
同病院を退職して64年に黒河内外科医院を開設した。当初から救急告示病院の指定を受けて地域医療に貢献。病院設立、介護老人保健施設・訪問看護ステーション・居宅介護支援センターといった、時代が求める施設、機能、設備の充実を重ね、現在は外科のほか整形外科、内科、皮膚科、麻酔科など多くの診療科目を擁する医療法人社団仁恵会黒河内病院へと発展した。
「病気を診るのではなく病人を診るというモットーを掲げ、患者さんへの対応として笑顔、迅速、豊かな感性を大切に職員一丸で診療にあたっています」と穏やかな口調で語る。
また市内37の病院が加盟する公益社団法人相模原市病院協会会長を務めており、「中心的な事業は休日・夜間の急病患者に迅速、的確な医療を提供するための二次医療」と会の役割を説明。「市の救急医療体制は市医師会、病院協会、医療機関、行政などが緊密に連携して構築されており、全国に誇れる充実したシステム」と胸を張る。
市民の健康と福祉を守るために重要な役割を果たす忙しい日々。趣味の一つである手回し蓄音機でSPレコードを聴くひとときが心を和ませる。