東京オリンピックが開かれた1964年、相模原市新磯で地元出身の兄弟2人が小さな印刷会社を創業した。社名は日相印刷工業有限会社。「日本へ相模の名を広めたい」という思いが込められていた。印刷技術とその社会的なニーズが激変する時代の中で常に先進的な取り組みを重ね、市内外の大学関係の仕事を中心に発展を続けている。創業から半世紀を経た今、「お客様の作りたいを形にする」というコンセプトを掲げ、印刷メディアカンパニーとして「日本の相模から世界へ」というさらに大きな目標に向かって邁進している。
(編集委員・戸塚忠良/2015年8月20日号掲載)
■兄弟で創業
創業者の荒井徹、功さん兄弟は、南区磯部に長く続く旧家の出身。先祖には江戸時代に草双紙の作者として名を成し、著名な戯作者・柳亭種彦一門と交わった仙客亭柏琳(本名・荒井金治郎)という文人がいるという。
兄弟のうち弟の功さん(現・代表取締役社長)は高校卒業後、建材製造の仕事などを経験したのち、兄の徹さんが始めた印刷業に参加する気持ちを固め、市と周辺の印刷会社がどんなものかを見て回った。東京五輪の前年で、市内にはまだ小さな印刷屋が7軒ほどあるだけだった。
実際に仕事を始めてみると興味が深まり、一年経つ頃には面白くて仕方がないほどになった。「当時は活版印刷の時代。仕事自体が面白くて、元日の朝から毎晩遅くまでやっても少しも苦にならなかった。商売としても将来性があると思い、やりがいを感じていた」と回想する。
当初は企業の伝票などの印刷がおもな業務で、相模原信用組合の仕事を一手に引き受けたこともある。座間日産周辺の下請け企業の仕事も少なくなかったが、わずかな代金でも手形決済が多いのには閉口した。「その後、長い付き合いのあるところ以外は手形での回収をしない方針を貫くようにした」という。やがて市内外の大学から受注したことが会社発展の礎となった。
■改革を重ねる
1982年、アナログからデジタルへの新時代到来を見越して、日相印刷は第2創業に踏み切る。南区麻溝台の現在地に本社と工場を新設し、ワンストップ印刷体制を確立するとともに、株式会社に組織変更したのである。
さらに、活版印刷からオフセット印刷への切り替えを起点に、オフセット印刷の時間とコストの大幅短縮に役立つシルバーマスターの導入、電算写植の導入、マッキントッシュによるフルカラーDTPシステムの実現など革新的な技術・機器の整備に積極果敢に取り組んだ。
この過程で荒井さんは即決即断の経営姿勢を貫き、マッキントッシュの導入時には、「東工大の教授に初めて見せてもらって驚嘆し、すぐに導入を決めた」というエピソードがある。
パソコンデータイメージの変換ソフトを自社開発した実績や、製版印刷コンテストでの優秀賞という受賞歴もあり、94年に市中小企業優良事業所を受賞。05年には東京営業所を開設した。
■第3創業の年
創業51周年、東京営業所開設10周年の今年は、第3創業の年と位置づけている。テーマは温故知新。印刷商品の古き良きリアルな触感と、デジタル&ネット化された新しいバーチャルな情報力を融合したビジネスモデルの構築を目指す意味がこめられている。
これと並行して地元とのつながりを強めるため今年6月、中学生による職業体験を行った。3日間の日程で、ワンストップ印刷を体験し、母校谷口中学校のタイムリーな学校案内を制作してもらうプログラム。4人の生徒はこのプログラムをこなしたうえ、自分の名刺を作って社員との名刺交換も体験した。
この企画を立案・実行した荒井慶太プランニングマネージャーは将来をになう子供たちから確かな反応を得た表情で、「地元を大切にすることが、自分の世界観の拡がりにつながると実感した」と話す。
産学連携ではこのほか、県立相原高校の生徒とのコラボで相模原市のPRにつながる商品の開発に挑戦している。
■衰えぬ郷土愛
創業以来ずっと「印刷で人を幸せにしたい」という思いを持ち、社長としての顔で「お客様とのWIN―WINを築くことが地元相模原の活性化につながると思う。自社についても、働く人たちが楽しく、やりがいを持って仕事に従事する環境を整えることが経営者の重要な役目だと考えている」と語る。
「兄弟仲良く」「借金をするな」という親の教えを守り通し、「健康で75歳の今日まで頑張れたことは父母のおかげ。感謝以外の言葉が無い」と述懐する荒井さん。月に一度は両親の墓参を欠かさず、毎年2月3日は大山に詣でる。自分を生かしてくれる人たちと地域への愛着の深さの証しだ。
これまでの歩みを振り返って「経営を通して、人間は何事も我慢が大事と学んだ」と述懐する一方、「ふるさと相模原に税金をたくさん払えたのが大きな喜び」と頬をゆるめる。日相印刷の技術とともに、この郷土愛こそ相模原から日本へ、世界へ発信する価値観にほかなるまい。