戦後70年を迎えた。
広大な米軍相模総合補給敞は、いわば大戦の傷跡として、長らく相模原のまちづくりの大きな障害となってきた。しかし戦中まで遡れば、そこにあった相模陸軍造兵廠の存在が、後々の占領、施設活用を目論んでいた米軍の爆撃から相模原を守ったともいわれる。
また、造兵廠内で修得したものづくりの手技を、戦後の混乱の中で生き抜くための糧とした人も少なくない。
㈱鷹島鋳造所(相模原市緑区橋本台2の7の3、鷹嶋利三社長)の創業者、鷹嶋利助氏(利三社長の父)は戦中、同造兵廠内の鋳物工場に勤務。1945年に終戦を迎えるや、失職。とりあえず翌年から、住まいのあった星が丘でアルミニウムの鋳物職人として鍋や乳母車の車輪等を製作し生計を立てた。
鋳鉄を始めたのは、相模原の市制施行から2年を経た56年。国鉄相模原駅前に土地を借りて工場を開設。従業員を雇い、㈲鷹嶋鋳造工場として新たにスタートを切った。
高度経済成長の波に乗って業績を伸ばし、70年には株式法人化。手狭になった事業拠点を清新に移した。ところが、70年代半ばのオイルショックを機に高度経済成長が終焉。産業界全体に先行き不安感が漂い始める。
こうした中、普通鋳鉄だけでは先々の競争力に欠けるとして同社が始めたのがダクタイル鋳鉄だ。
含まれる炭素(黒鉛)の結晶を球状化することで普通鋳鉄の2~4倍ほどの強靱性を持つダクタイル鋳鉄は、製品の肉厚を抑えて軽量化を図ることができる上、アルミ等と比べて低コスト。自動車部品等には極めて有益な鋼材だ。
当時製造するには、設備、技能両面でハードルが高く、手掛ける業者は希少だった。それをいち早くものにした同社に多くの引き合いがあったことは想像に難くない。
ただ、時の流れは速い。同社が基幹としていた自動車用鋳物の分野には80年代半ば以降、メーカー系の大手が続々と参入。撤退を余儀なくされた。
「それでも、ダクタイル鋳鉄のニーズは拡大傾向で、穴埋めの受注確保にそう苦労はしなかった」と鷹嶋社長は振り返る。
さらに近年、黒鉛球状化させる添加剤の主流がマグネシウムからレアアースに移行したことでダクタイル鋳鉄の製造が容易になり、手掛ける業者が増えた。同社にとって無視できない懸念材料であったが、40年の実績に対する取引先からの信頼は揺るぎないようだ。
現在、作業用ロボットやサーボモーター等の産業機械用部品を基幹に、手掛ける鋳鉄の8割がダクタイル。ここ数年、業績は安定している。
03年に本社工場を移した機械金属工業団地では新参メンバーに属するが、創業70年の社歴はまさしく古参。人材の確保、定着が経営安定に直結する業種、規模だけに、4人のベトナム人を含む社員16人全員を正規雇用するなど、福利厚生面の充実に努めている。 (編集委員・矢吹彰/2015年8月20日号掲載)