佐藤賢司さん、市議7期の半生に悔いなし/地元貢献の初志を貫く


10月に70歳を迎える佐藤さん

10月に70歳を迎える佐藤さん


 相模原市議会議員を7期28年間務め、今春勇退した佐藤賢司さん(69・中央区横山)。上溝の農家に生まれ、青年時代に相模原市議になると決意し、初志を貫いた。人口増加と都市化、インフラ整備、合併、政令指定都市移行など、市の姿が大きく変化する時期の市政を議員の視点で見守り、市の施策のチェックに取り組んできた。「悔いのない議員生活だった」と振り返る佐藤さんの活動を支えたのは、口癖のようにしている「相模原が好き」という郷土愛にほかならない。 (編集委員・戸塚忠良/2015年9月10日号掲載)

■若い日の決意

 終戦の年、1945年生まれの佐藤さんは小さい頃、ほかの子供たちと同じように学業の傍ら家の農作業を手伝った。そうした経験を持つ少年の心に、生まれ故郷への強い愛着が根付いたのは自然な成り行きだった。

 日大藤沢高校から日大法学部に進んだ当時は、学園紛争が燃え上がっていた。だが佐藤さんは、過激な行動に走る同年代の若者の考えとは一線を画す。仲間たちと「このままでは日本はダメになってしまう。日本が正しい方向へ進むためには、自分たちは何をすべきなのか」と熱く語り合い、「地方から世の中を変えていこう。自分たちの郷里で活動しよう」と誓いあった。

 この思いを胸に刻んだ佐藤さんが選んだ道は相模原で政治活動に邁進することだった。当時の神奈川3区選出の自民党国会議員・戸沢政方氏の選挙活動を手伝い、その後、秘書を務めた。そのときには、いずれ自分が市議に立候補する気持ちを固めていた。

■初当選と次点バネ

 初めて市議選に立候補したのは83年、37歳のときだった。定数46人中44番目の得票で当選した。

 「8人兄弟の末っ子だったから、小さい頃から兄弟のお古を着せられ、幼心に自分は何で生まれてきたのだろうと悩んだこともあった。当選したとき初めて、生まれてよかった、生きてきてよかったと思った。本当にうれしかった」と回顧する。

 当時の市の人口は約46万人。毎年2万人増という急増期は過ぎたが、相変わらず増え続けており、都市基盤の整備とまちづくりが急務になっていた。

 新人議員として10年後、50年後の市の姿を思い描きつつ、この課題に市政がどう取り組んでいるかをチェックする日々が続いた。「議員になって改めて、相模原のまちづくりが動き出したと思った。それだけに大きなやりがいを感じていた」という。

 その矢先、4年後の選挙で落選の憂き目を見る。50票差の次点だった。地盤である横山地区だけでなく、市内の広い範囲に支持者が散っていたため、足元を十分に固めきれなかったのが敗因だった。

 かくして浪人生活を送ることになったが、志を曲げることはなかった。「妻が“あなたにはこの道しかありません。この道で頑張って下さい”と言ってくれたのが大きな支えになった。落ちたのは自分の努力が足りなかったためだと自分に言い聞かせ、それまで以上に多くの人と会い言葉を交わして地域とのつながりを深めた。その後の苦しい時にも耐えられたのはこの4年間があったからこそだと思う」。いわゆる“次点バネ”を生かしたわけである。

■忘れ得ぬこと

 その後は6期連続当選し、会派の幹事長を何度も務め、最後の4年間は保守系最大会派・新政クラブの代表を務めた。この間の議会については「保守系の議員が多数を占めていたこともあり、安定した運営が行われていたと思う」と総括し、「自分としても多くの市民の声を聞き、親しい関係を築くことができた」と満足感をにじませる。

 議会人として過ごした28年の間に相模原は都市としての骨格を大きく転換した。2007年1月に完成した旧相模原市と津久井郡4町との合併、そして、10年に実現した政令指定都市への移行である。この画期的な出来事に関連して「思い出すたびに胸が熱くなる」と声を湿らせる場面に遭遇した。そのシーンをこう回想する。

 「合併を推進した当時の小川勇夫市長は、合併式典に出席した際、不治の病に侵され衰弱しきった体を車椅子に沈めていた。その小川さんが、式典の席で隣にいた松沢知事(当時)に最後の力を振り絞って“次は政令市だ。力を貸してくれ”と語りかける声をすぐ近くで耳にして、政治家の命がけの執念を感じて心が震えた」という。

■今は「充電期」

 20歳のときに志した地元での議員活動を全うした今、後を引き継ぐ議員たちに期待し応援する気持ちは強い。「リニアの乗り入れ、基地の一部返還、相模原橋本のまちづくりをはじめ50年、100年先を展望しながら取り組むべき課題は多い。その大事な時期に議席を持つ使命の重大さ、議員バッチの重みを感じながら激論を交わし、市民が面白いと感じる議会になってほしい」とエールを送る。 

 その一方、自身の地元貢献への意欲は衰えず、“引退”の2文字は頭にない。「自分にはまだ相模原のためにできることがあるのではないかと考えている。だから人生最後の充電期」と、悠悠自適の日々の中でも新たな活躍の場を模索している。

…続きはご購読の上、紙面でどうぞ。