相模原市緑区の押田産業会長の押田成夫さん(80)は旧相模湖町の山里で会社を興し、自らピラミッド型経営と名付ける多角経営で独自の道を歩み、このほど社長の職を息子にゆずって悠悠自適の生活に入った。創意工夫を重ね、病を克服しながら経営を続けて来た押田さんは、ふるさとの川、道志川に誰にも負けない愛着を持ち、生まれ故郷の移り変わりを自分の目で確かめて来た地域史の証人でもある。「これからは、次の世代のために自分の家の詳しい系図を作りたい」というのが新たな生きがいだ。 (編集委員・戸塚忠良/2016年2月1日号掲載)
■創業への道のり
押田さんの家は内郷の道志集落に代々続く家系で、「私の孫で七代目です」という。元気な少年が道志川と周辺の集落を舞台にして活躍する「三太物語」そのままの少年時代を過ごし、長じて伊藤忠燃料に就職。石油製品の販売と出先の所長などを務め、得意先の拡大に走奔走した。
「紹介してくれる人がいればどこへでも行った。営業の仕事は全然苦にならなかった」と押田さん。やがて「自分で商売をしてみたい」という思いを募らせたが、75年に体をこわし、7度に及ぶ入退院を余儀なくされた。それ以来、体のケアには人一倍気を付けている。
会社を辞め、自宅で療養中心の生活をしている間も決して怠惰な時間を過ごすことはなく、自分にできる仕事を探した。
新聞の折り込みで目にした、靴下などに入れるゴム糸を作る仕事の募集に応じて自宅の庭に機械を置いて製造を始めた。しかし、機械は24時間稼働だったため体が続かず、短い期間で断念した。
その後音響製品のスピーカーのマグネットを修理する仕事を始めた。「ゴムの手袋をして直径7、8センチのマグネットを一つひとつ丁寧に掃除するのは骨が折れました」と苦笑まじりに回想する。
韓国・中国への輸出用のカーステレオやウォークマンなどのスピーカーの組み立て、ようやく社会への浸透が始まったコンピュータの枠のバリ取りにも従事したが、次第に製造拠点が海外に移ったため、これらの仕事の量は減っていった。
■ピラミッド型経営
その一方、平成に入った頃から炭の効用が強調されるようになり、押田さんはこの風潮に沿った業務拡大を図った。
「平成5年に東北地方が冷害に見舞われたため米不足になって、おいしいお米が食べられないことがあった。そのときお米といっしょに炭を入れて炊くとおいしく炊けるという評判が高まった。もともとこの集落では炭焼きをする人が多く、私自身も以前の会社で石油製品を扱って、木炭についての知識も蓄えていた。これならやれると思い、木炭販売に乗り出した」と新事業への進出の背景を語る。
木炭はアウトドアブームでバーベキュー用などの燃料として多くの需要があり、竹炭、竹酢液、木酢液などの販売にも手を広げた。自身のアイデアを生かした備長炭入りの枕やマット、座布団もラインアップさせ、床下調湿剤としての利用もPRしている。
そして、これとは別に食品メーカーからパッケージングの仕事も受注。炭、スピーカー、パッケージングの三分野での多角経営化を実現した。「どれか一つが悪くなってもほかの分野で補てんできるのではないか、会社を安定経営できるのではないかと考えた。自分でピラミッド型経営と名付けていました」と話す。
■「一生懸命に」
近年、経営の軸はパッケージング業務。工場は決して見栄えのする外観ではないが、適切な作業環境を整えており、不良品を出さない点で親会社から厚い信頼を寄せられている。「人生も経営も自分の体も、体験したことはすべてデータになる。大事なのはそれを生かすこと」というのが信念だ。
企業立地が少ない旧相模湖町で長年経営を続けている押田産業。現在の従業員は52人。地場企業として地域の雇用創出と地域振興に貴重な役割をはたしている。
「私はウサギとカメの童話のカメ。のろくても一生懸命に会社経営をやってきた。苦しかったときには妻が一生懸命支えてくれたし、従業員も一生懸命働いてくれる。人はおたがいの支えがあってこそ生きられるとつくづく感じる」という言葉に真情がこもる。
■故郷への想い
会社経営で忙しい毎日を送るかたわら、「歩いて6分」の道志川での釣りと川遊びを何よりの楽しみにしている。「川では自分一人の楽しみだけでなく、いろいろな人との出会いがある。釣りの話で盛り上がったり、河原で仲良く遊んでいる家族連れと知り合いになったりするのは、道志川の恵みだと思う」と笑顔をのぞかせる。
地域の歴史にも深い思い入れがあるのは当然で、自分が見聞したことや地域に伝わる昔話、そして四季折々の身辺の景観などをホームページにアップしている。ふるさとを多くの人に知ってもらうための情報発信の底には、幼い頃から培った故郷の風土への愛着心があることは言うまでもない。