開業から24年目を迎える竹村クリニック(相模原市南区)の竹村克二院長(66)は長野県の出身。中学・高校生の頃、自宅で長く病の床についていた祖母を手厚く往診し、最期を看取ってくれた医師への感謝の気持ちが、自分も医師を志す動機になった。東京医科歯科大に学び、卒業後は第一外科学教室に入局。心臓外科、消化器外科などで研さんと研究を重ね、関連病院での勤務も経験した。92年に相模大野で開業。地域住民のホームドクターとして信頼を深めて現在に至り、昨年から市医師会会長という要職を務めている。(編集委員・戸塚忠良/2016年3月10日号掲載)
■医師を目指す
竹村さんは1949年、昔ながらの風景が色濃く残っていた飯田市山本村に農家の次男として生まれた。家系に医者の先祖は無かったが、同じ屋根の下で暮らす祖母が病に倒れ、かかりつけの医師が往診に訪れるようになったことが、自分の生き方を決める契機になった。
病人に優しく接する医師の姿に多感な少年の心は動かされ、逝去するまで祖母を診療してくれたことへの感謝の思いを胸に刻んだ。この体験が竹村さんに「医大へ進もう」という気持ちを芽生えさせた。
東大安田講堂事件で世間が騒然としていた69年、東京医科歯科大学に入学。医学の勉強の第一歩を踏み出し、日本語の文献だけでなく英語、ドイツ語、時にはラテン語と格闘し、分厚い専門書を読んでは暗記する日々が続いた。
「今でもいちばん思い出に残っているのは、卒業試験。2日ごとに1科目という期間もあり、学生だれもがキリキリしていました」と回顧する。
■消化器外科の道
卒業と同時に附属病院第1外科に入局した。「学生のときより、医者になって研究と臨床の両方をするようになってからの方がずっとハードでした」と苦笑交じりに語るように、心臓外科、胸部外科、消化器外科などで研さんを重ね、1か月間連続で病院で寝泊まりする生活も経験した。
その後、胃がん専門の著名な教授の下で大腸がんの研究を深めるとともに、手術後に残る恐れのある様々な障害を防ぐための大腸機能保存手術の技術習得に力をそそぎ、内視鏡検査技術にも習熟。関連病院での勤務もこなした。
当時はがんの治療法開発が喫緊の課題。進行した患者には延命措置を施すしかないのが実態だった。「もう少したてば薬ができる、それまでは一秒でも長く患者さんの命をつなごうという思いを支えに、がん医療に携わる人間は必死になって自分にできることを精一杯やっていました」。言うまでもなく、竹村さんもその一人だった。
大学を卒業するとき指導教授に「20年は医局でやってみろ」とアドバイスされたが、17年間勤めた時点で退職した。医局での活動に区切りを付ける気持ちになった要因は、「医局で自分ができるのはここまで」という判断と、勤務医を務めた東京・成増の病院の院長に刺激されたこと。「私と同じ信州出身で、アグレッシブな人でした。60歳のとき個人クリニックを病院にしたと聞いて開業への関心を深めました」。現実的な問題もあった。「3人の娘を嫁がせる準備も必要だと考えていました」と、率直に明かす。
■クリニック開業
こうして92年、相模大野駅に近い旭町の住宅地の一角にクリニックを開業した。診療科目は内科、外科、消化器内科。
信頼される地域のホームドクターでありたいとの思いを込め、「最新の医療を優しい心で」をモットーに掲げた。そして、往診、時間外、看取りの要望に応えることも診療方針にした。往診や看取りに応じることは、医師を志した初心を貫くことでもあった。
開業以来、診療の中心は内視鏡検査。がんの早期発見への最も効果的な手法であることは 言うまでもない。また、どんな患者にもきめ細かな説明を行い、かかりつけ医としての信頼を得ている。
■市医師会長に
市医師会には開業と同時に加入。理事、副会長などを歴任し昨年、会長に就任した。市医師会は、休日・夜間の急病診療、市のがん検診、乳幼児の健診・予防接種などに協力しているほか、在宅ケア対策、訪問看護ステーションの運営、広報誌『健康さがみはら』の発行などの事業を通じて市民の健康増進に貢献している。
「市内の医療体制は充実していると考えています。行政と医師会は緊密に協力しており、医師会会員も市民の健康と幸せを守るという気概を持って連携しています。全市的に市民の希望に対応する体制を維持・向上させ、市に協力して少子高齢化の進行を視野に入れた健康増進計画を策定することが課題ですね」
地域住民の頼れるお医者さんとして、同時に市医師会のトップとして多忙な日々を過ごす竹村さん。「健康維持のために大切なことは」という質問には、「日頃の養生はもちろんですが、かかりつけ医を持ち、年に一度は検診を受けることですね。バースデイ検診を心がけるのもいいと思います」と、笑みをうかべながら明快に答えてくれた。