植田憲司さん(63)はJR淵野辺駅北口の「肉のハッピー」の2代目。淵野辺で生まれ育ち、青年期には九州・博多で商売の実際を肌で覚えた。スーパーなどの市内進出後は、どう生き残るかに知恵をしぼり、悩んだ末の結論は「父の代からの正直な商売を続けてお客様に喜んでもらうこと」だった。今年4月に発足した、にこにこ星ふちのべ商店会会長も務め、商売と商店街活動の両面で郷土淵野辺の繁栄と心通うまちづくりのために奮闘している。(編集委員・戸塚忠良/2016年6月20日号掲載)
■博多で修業
「肉のハッピー」は憲司さんの父親・昭司さんが1949年に創業し、52年に現在地で開業、法人化した。地区の人口は右肩上がりに伸び、駅周辺の商店街は買い物客でにぎわった。
開業当時から「ハッピー」の一番人気はコロッケ。買い求める客が目白押しで、夜通し仕込みをすることも多く、原料のじゃがいもは市場だけでは間に合わないため、貨車で運ばれて来るほどだった。
東海大相模高校を卒業した植田さんは、友人の勧めもあって九州・博多の肉店で修業し始めた。「博多には何でも集まっていた。物価が安いのにも驚いた」という。
戦後の闇市の雰囲気が残る市場の中で商売のやり方を体で覚え、仕入れするときは値札通りに買ってはだめ、必ず値切れ、という教訓も再三聞かされた。
商品の納入先の一つに競艇場があり、月末の集金日になると市場の親父さんたちから舟券を頼まれた。うっかり違うレースの舟券を買ってしまい、それが大当たりしたという漫画のようなエピソードもある。
郷里にもどった後、茨城県にある食肉学校で学んだ。食肉全般の知識の習得、豚や鶏の解体方法の実習、調理師免許の取得などが主な成果だった。
■自分流を模索
80年代からのスーパーと大型店の本格的な進出で、相模原市内の昔ながらの商店街は売り上げが減る時代に入り、多くの消費者に親しまれて順調だった「ハッピー」も大きな打撃を受けた。さらに、バブル崩壊が追い打ちをかける。経営者としての植田さんの悩みは深かった。
「もともと頭を使うより体を動かして汗を流すのが得意な方だが、苦境を乗り切るには知恵をしぼるしかないと考え、いろいろな講習会に出かけた。ある講師から『ダメならどうしてダメなのかをとことん考え、それに対処する方法を追究すれば改善策が見つかる』という話を聞いて、なるほどと思った」という。
考え抜いた末に出した結論は、「お客様に喜んでもらえる、いい物を提供すること」だった。これが植田さんの今も変わらぬ経営手法だ。別の言い方をすれば、「大事なのはまっとうに、正直に商売をすること。要するに、父の代から従業員みんなが心を合わせて取り組んで来た商売のやり方を続ける決意」にほかならない。
■「いい物を提供」
「お客様に喜んでもらえる物を」という思いは、商品の厳選につながっている。豚肉は山ゆりポークを仕入れている。県内8軒の契約農家で生産されているJA神奈川のブランド肉で「飼料の配合を工夫しており、適度の霜があって、脂がおいしい」と胸を張る。
鶏はチルドパックではないジューシーなものを使ってスーパーなどとの差別化に努めており、惣菜などの加工品も豊富に取り揃えている。さまざまな風味のソーセージ、昔ながらの味のベーコンは特に好評で、近隣の常連客だけでなく遠くから足を運ぶなじみ客も多い。もちろん、看板商品であるコロッケが愛されつづけていることに変わりはない。
品揃えだけでなく、消費者とのコミュニケーションを大切にしているのも植田流だ。「お客さんと街で会っても言葉を掛け合える関係でありたい」と願い、「それが淵野辺らしさだと思う」と力を込める。11年には消費者の投票による、第8回相模原お店大賞を受賞した。
■商店街振興
地元淵野辺のセールスポイントは、「銀河をかけるまち」と「学生のまち」。2010年に、はやぶさの奇跡の帰還に世界中が沸いたとき、駅周辺の商店は、はやぶさにちなむ新商品を作って帰還を祝い、JAXAの研究者との交流を深めた。
また、去年と今年、駅近くに立地する青山学院大学の箱根駅伝優勝を祝うパレードには多くの人が参加した。「市民の郷土意識を深めることにつながると思う」と植田さん。
会長を務めるにこにこ星ふちのべ商店会は年間を通じて多彩なイベトを開催している。「会員がどんどん企画を出してくれるから会に活気がある。銀河まつりで大好評のムーンウォークも商店街の未来をになう若い世代のアイデア。最近、駅周辺に増えているチェーン店の店長にも加入を呼びかけている」と話す。
商店街の繁栄と心通い合う街づくりを一体で、と考える植田さん。「生まれ育った街だから淵野辺への愛着は誰にも負けない。だからこそいい街にしたい」という言葉に真情がこもる。