ことし6月末に津久井湖ゴルフ倶楽部の社長を勇退した渡邉孝さん(88)。特攻志願兵として18歳で終戦をむかえ、中学校教師から30代で事業を起こし、時代の流れを先取りして転業を積み重ね、事業家として歩んできた。この半生をつづった自叙伝『起ち上げる勇気・退く知恵』(文芸社)をこのほど上梓した。半世紀にわたり、経験から学んだ「社長道」を、渡邉さんは若き事業家に伝えたいとの熱い想いを抱いている。
(社主・本橋 幸弦/2016年7月20日号掲載)
■18歳で特攻兵
渡邉さんは、茨城県西茨城郡笠間町(現笠間市)の出身。薬屋も営む農家の5男として生まれた。少年時代に飛行兵を志し、高等小学校卒業後の1942年、海軍飛行予科練習生(予科練)へと進んだ。折しも前年の41年、日本は太平洋戦争へと突入していた。
三重海軍航空隊に入隊した渡邉さんは、飛行兵としての訓練を受ける。この予科練の厳しい生活が、その後の糧になったという。
「理不尽なほどの厳しさの奥には、少しのミスが自分や仲間の死に直結するという現実がある。手を抜くことは許されない、という仕事感覚を予科練が、私に植え付けてくれた」と振り返る。
45年初夏、渡邉さんに衝撃的な指令が下る。「特攻兵」に指名されたのだ。18歳だった。「死にたくない」と思ったが、口に出せば非国民といわれる時代。しかし、当時の日本に飛行機はすでになく、特殊潜航艇による特攻を命じられた。
海軍の横須賀鎮守府で、渡邉さんが特攻訓練に明け暮れる最中、日本は終戦を迎えた。「私が生きながらえたのは、わずかな時間の綾にすぎない」と渡邉さんは言葉少なに語る。
■教育者を志す
復員した渡邉さんは実家に戻り、今後の人生を模索した。選んだ道は「教育者」だった。猛勉強のすえ46年、水戸にある茨城師範学校(現茨城大学教育学部)に入学。特攻を命じられてから、わずか1年後のことだった。
卒業後、社会科と数学の教師として、茨城県下館市の中学校に赴任。教育者としての道を歩みだした。
しかし、「このまま生涯、教師でいいのか。事業家になりたい」との思いが強くなった。だが、起業するといっても具体的な計画があるわけではなかった。まずは丁稚見習いから商売を学ぼうと、渡邉さんは5年で教師を退職した。
■食品業で修行
就職したのは、東京・日本橋の食品仲卸問屋。配達の肉体労働から仕事を覚え、その後、営業に就いた。渡邉さんは営業で能力を発揮し、帝国ホテルとの取引にも成功した。
営業活動中、のちに起業する事業と出会う。東京・青山にあった日本初のスーパーマーケット「紀伊国屋」だ。当時、小売店はどこも対面販売で、同店の販売スタイルは画期的だった。衝撃を受けた渡邉さんは、スーパーマーケットでの起業を決意する。
■相模原で起業
教師時代に知り合った多嘉子さんと結婚した渡邉さんは58年、相模原市東林間にマイホームを購入。その後、スーパーの出店場所を探していたところ、相模大野駅前の二筆の土地が売りに出ていることを知る。「初めて訪れた相模大野は、駅前の道も舗装されておらず土埃が上がっていた。まるで西部開拓時代のガンマンの気分だった」と苦笑交じりに振り返る。
当時、相模大野では日本住宅公団が相模大野団地を建設中だった。今は桑畑と麦畑が広がるこの地域も人口が増え、土地の値段は確実に上がる。住民たちは必ず駅を利用するのだから、駅前にスーパーを出店すれば―。渡邉さんの脳裏に成功のイメージが沸いた。時代の流れをつかんだ瞬間だった。
しかし、手元に事業資金はなかった。渡邉さんは知人の店主にお金を借り、一筆の土地を購入し、それを担保に銀行借り入れをして、残りの一筆を購入。土地の値上がりを見て一筆を売却すれば、最初の借金は返済できると考えた。元飛行兵のまさにアクロバット飛行だったが、これが成功した。相模大野団地の入居開始にあわせ59年、スーパーマーケット「大野ストア」は開業した。
■5年で転業へ
「大野ストア」は、新しい消費スタイルを求める新興団地世帯のニーズをつかみ、成功した。しかし時代の流れは早い。大手資本が続々と駅前にスーパーを出店してきたのだ。
渡邉さんは開業から5年で、早々に転業を決断。建物の1階を貸店舗とした。2階には飲食店「すき焼きおお乃」を開業。また、これが時代のニーズをつかんだ。貸店舗はすぐに埋まり、すき焼き店は、外食産業が未発達という当時の状況に合致した。
同店は87年、「割烹おお乃」に転業。「多様な飲食店が進出する中で、生き延びるためには、大きく店のスタイルを変えなければ」という決断だった。同店は2009年、相模大野西側の再開発により、開業50年の歴史に幕を下ろした。
渡邉さんは15年、津久井湖ゴルフ倶楽部の社長に就任。ここでも手腕を発揮し、利用者数を前年度比4千人増加させ、ことし6月末に退任した。一方で出版社から依頼をうけ、自叙伝を6月に出版した。
「人や時代の変化に傍観者であっては、事業を続けることはできない。失敗と飛躍の中で学んだことを、次の世代に伝えることも、今の大きな務め」と渡邉さんは語る。