不動産の賃貸管理・売買から新築・リフォーム、時間貸駐車場や貸収納サービスまで手掛けるオリバーグループ(相模原市中央区鹿沼台)。その創業者であり、現社長の小川秀男さん(67)は10月20日、取引のある3千人の不動産オーナーや業界を志望する若者に自社の中身を知って理解してもらおうと、不動産業や建設業を志した道程をつづった電子書籍『絆業(きずなぎょう)』(エーアイ出版)を発行した。社会に対する責任や地域を愛する気持ちなど、同社が理念とする信頼形成のあり方をこの一冊に込めた。
(芹澤 康成/2016年12月1日号掲載)
■家族の猛反対
小川さんは東京都町田市出身。1949年7月、姉1人と妹1人の間に長男として生まれた。
就職するにあたり、職業を選ぶ方法を学んだきっかけがレストランのアルバイト。仕入れた食材を無駄なく使うため、古いものを先に使うというルールがあった。「お客さまは鮮度の良いものを期待しているはずだが、鮮度という自分で制御できないものと戦う業界は合わない」というように、消去法を学び残ったのが不動産業だった。
しかし、当時は不動産業への偏見も多く、両親や親族から強く反対された。母から言われた「人さまを騙してまで、商売はしないで」という言葉は今でも忘れていない。
23歳の時、おじの紹介で相模原市内の不動産会社に入社した。初めの1年間は賃貸営業をしながら、不動産業のさまざまなノウハウを学ぶ日々が続いた。企画業務を任されると覚えることが多くあり、次のステップに胸を躍らせながら吸収していった。
70年代の相模原や町田は、東京のベッドタウンとして人口が増加し、宅地開発の需要が高まっていた。土地を売ろうとする農家も多く、宅地開発と分譲住宅の企画に打ち込んだ。
宅地建物取引主任者をはじめ、建築士など関連する資格を取得。計画の作成から設計・施工、分譲計画など、一連の行程に自分の考えを反映し完成度を追求した。「思い通りの住宅団地を作り上げたときの達成感は何ものにも代えられない」と小川さん。
同業者からも相談を受けるようになり、市街化調整区域の開発など難しい案件も手掛けるようになっていた。創造的な業務の深さと広がり、スケールの大きさに改めて「不動産業」の魅力を感じていた。
入社8年目、30歳の夏だった。倒産寸前となった知人の会社を再建するため、辞める気がまったくなかった会社を退職することになった。「仕事にやりがいを持っていたので、役員になるまで勤め上げるつもりだった」と振り返る。
■新しい不動産業
現在の中央区にあった小規模だった不動産会社を経営再建することになった。企画業務のノウハウが役に立ち、傾いた経営を改善させることができた。しかし、やればやるほど経営者や役員との溝が深まり、今後の経営方針について合意が得られなかった。
「新しい会社を創ろう」と決断し、前身となる「中日建設」を設立したのは82年。社員ゼロからのスタートだった。「当たり前のことを、当たり前にやり続ければ、当たり前でなくなってくる。地道に積み重ねていけば〝永遠の企業〟になる」という信念があった。
起業してまず、自社ビルの建設に着手した。土地や建物を扱うため、「社屋は会社の信頼を体現するもの」と考えていたからだ。当時の社員は3人で、「約400平方㍍の社屋建設は足がすくむ思いがした」という。
84年には、コーポレート・アイデンティティーを導入し、小の「オ」と川の英語「リバー」を合わせて「オリバー」に社名を変更した。ユーモアを交えれば、笑って、覚えてもらえるのではないかという期待を込めたものだった。
お馴染みの青い象「住む象くん」が誕生したのもこの頃。「やさしくて強い」イメージだったため「象」をイメージキャラクターにした。子供が関心を持てば母親に伝わり、家庭の中で住まいを決める権限が強い主婦に覚えてもらおうという考えだった。
■継続は力なり
小川さんはこれまでを振り返り、「経済的な苦難を含め、苦しいと感じたことは一度もない。いつも誰かが手を差し伸べてくれた」と断言する。
50歳になってから17年間、自宅から毎朝4・3キロメートルを歩いて通勤している。継続する秘けつは、歩き方や姿勢を工夫し、楽しめるようになるまで思いつく限りの試行錯誤をすること。
「〝継続は力なり〟と言うが、物事を継続し成果を得るには辛いことを楽しめることに変えられる工夫が最大のポイント」と小川さんは話す。
オリバーは、相続や賃貸経営などの講座、交流イベントの開催などを通して不動産オーナーとの信頼を築きながら、末永い相互信頼による業務を進めている。不動産を通してあらゆるサービスを提供できる〝社会公器〟を目指している。