一般財団法人北里環境科学センター(相模原市南区北里)の伊藤俊洋理事長(75)は、小学生の頃のある原体験を通して、宇宙・生命・精神の起源に強い関心を抱くようになり、その気持ちを大切に心にしまいながら半生を歩んできた。その歩みは「人はどこから来て、どこへ行くのか」という人間にとっての根源的な疑問を解き明かすための心の旅と重なっている。大学人として43年間に及ぶ研究・教育活動の中で業績を挙げてきたが、福島第一原発の事故以来、「地球環境核戦争が始まった」と社会に向けて警鐘を鳴らし、さまざまな講演や論文、FMラジオなどを通じて原発廃止を強く訴えている。一方、地元の自治会活動にも積極的に取り組む飾り気のない素顔ものぞかせる。
(編集委員・戸塚忠良/2017年2月1日号掲載)
■ 生化学の道へ
山梨県笛吹市出身の伊藤さんは、宇宙、生命、精神の成り立ちについて自問自答を重ねながら成長し、県立石和高校卒業後、山梨大学工学部に入学。微生物の発酵生産システムを研究する道に進んだ。学生時代は、山岳部、ラグビー部などで、心身を鍛えた。
卒業後は、創立間もない北里大学に就職し、生化学の道に進んだ。
■生命の起源探究
北里大は創立当初の一学部二学科から次々に学部を増設し、1968年に全学部の一年生を対象にする教養部を開設し、伊藤さんは、ここで定年まで研究と教育に携わることになった。研究テーマに選んだのは酵母のリン脂質の構造と機能というもので、35歳のとき、新しいリン脂質の構造解析の研究で農学博士の学位を取得した。
78年にはアメリカの名門イエール大学(医学部神経化学教室)に留学。帰国後、地球上の生命がどのようにして誕生したかを明らかにしようと、過酷な環境に生きる生物の生態を研究する極限環境生物学に取り組んだ。生命の起源を探るのは、伊藤さんにとって生涯のテーマにほかならない。
この研究を通じて伊藤さんは、総ての生命現象は化学反応で成り立っているので、人間の精神機能も化学反応で説明できる筈であるとの確信を持ったという。生命の起源の解明、脳機能の解明は、人類に残された最大のテーマであると述べている。
北里大教授(化学担当)、副学長を務めた後、65歳で北里環境科学センター理事長に就任。日本油化学会会長、極限環境生物学会副会長などを歴任している。自宅近くの北里2丁目に、ライブや留学生との交流拠点として「サンエスカフェ・コスモス」という名のゲストハウスを開設し、夜間、ベランダから漆黒の宇宙に浮かぶ地球をイメージできる手作りの仕掛けもセットしている。
■原発批判
しかし、2011年3月11日の東日本大震災に伴う福島第一原発事故は、「アストロバイオロジスト(宇宙生物学者)として常に宇宙から地球を眺める」ことを信条にしている伊藤さんにとって、地球環境への危機感を深め、文明の未来を強く危惧させる衝撃的な出来事だった。
「宇宙は137億年前に、太陽系は45億年前に誕生した。初期の地球は、生物に有害な放射性同位元素に溢れていたが、数億年の時を経て、放射能は減衰し、自然環境は安定し、生命誕生のための温暖な環境条件が整った。38億年間の生命史上、地球は多くの天変地異に巡り会い、生物大絶滅の経験を重ねて来たがその度に生物は進化を遂げて来た。地球上に隈無く「原発」が敷設された状況で天変地異が起こると、地球環境は38億年以前と同様な生物にとって極めて深刻な環境に戻ってしまう」と警鐘を鳴らしている。
この地球環境核戦争は原発先進国と地球上の総ての生物との間の全く新しいタイプの環境戦争であると位置づけている。
唯一の被爆国であり、今、国を挙げて原発事故の処理に取り組んでいる日本が、この新しい環境核戦争の概念を世界に広め、文明の危機を乗り越えるためのトップランナーになるべきだ、と提言している。
■ 宇宙生命哲学の提唱
一方、地域ボランティア活動にも熱心で、市内の小学生を対象に「地球環境」に関する出張授業にも取り組んでいる。「地球上の生命現象は、太陽光をエンジンとする環境構成員(水と炭酸ガスとミネラル)の循環システムである。総ての生き物は、同じ循環系に生息する運命共同体で、過去から現在、現在から未来へつながる掛け替えの無い仲間である。」との考えを、近代原子論に基づいて、宇宙的視野のもとに易しく解説している。この考えをさらに進化させて、「宇宙生命哲学」という概念にまで昇華させ、「人間の一生は、素敵な地球人になる練習を絶え間なく続けることである」と結んでいる。
■地域活動
相模原市の「フォトシティさがみはら」実行委員会の一員として「宇宙からの地球のライブ映像を、JAXAの地元である相模原市から世界のお茶の間へ、平和のメッセージとして届けよう」などの提案も行なっている。
長年の自治会活動により2016年には総務大臣表彰を受け、今は妻の佑子夫人とともに市のいきいき100歳体操の普及にも努めている。ちなみに佑子さん自身も医学博士の学位を持つ学者で、2050年の世界の食糧事情を展望した『食』と題する夫妻の共訳書もある。
幼い頃から人間にとっての永遠の謎に向き合ってきた伊藤さんの軌跡は、この謎を抱きつつ学問の道で、自ら手にした発見と信念が象牙の塔だけに収束するのではなく、世界と地域へのメッセージの源となり得ることを鮮やかに示している。