6月に開催された公益社団法人相模原法人会総会で、第8代の新会長に選任された新倉裕さん(64、ユタカ企業社長)。横浜市に生まれ、中学3年のとき相模原市田名に転入。県立相模原高校から駒澤大学に進んだ。若い頃から多彩な趣味に親しむ一方、25歳のときから社長として経営にあたるとともに、相模原青年会議所(JC)に加入して積極的に活動するなど、地域と長く、深く関わっている。新倉さんに半生を振り返り、新会長としての抱負も語ってもらった。(編集委員・戸塚忠良/2017年7月10日号掲載)
■多彩な趣味
青春時代の新倉さんは興味の赴くまま、さまざまな体験を重ねた。
幼少から絵を描くことが好きだった新倉さんは、高校2年から洋画家が主宰するアトリエに通い、美術大学を志した。グラフィックデザインの勉強に興味があったが、受験に失敗。浪人時代は、町田の小さな洋食店でアルバイトに励んだ。「料理の世界は、絵を描くような感性に満ちた創作的な世界だった」と振り返る。
駒大経済学部に進んだ理由は、親元を離れて生活したいという自立志向が強く、北海道・岩見沢校舎に教養課程の2年間に限って、在学できる選択肢があったからだった。
北海道での生活は、学業の傍ら、学生演劇の舞台に立ち、美術クラブにも所属した。「地元の友人との出会いにも恵まれ、本当に充実した2年間だった」と回顧する。
東京に移った3、4年時代は、横浜の輸入雑貨店でアルバイトをする一方、サーフィンにのめり込み、時間さえあれば葉山や茅ケ崎に通いつめた。
さらに生まれつきの美術好きが高じて、若くして骨董にまで興味の幅が広がり、東京・南青山通りに足しげく通った。
骨董商の中で特に親しくなったのは、房州屋という小さな店の主人、小谷伊太郎さんだった。骨董界の鬼才、伝説の骨董商と呼ばれる人物で、客を選ぶので、店の顧客はわずか10人。新倉さんは最年少にして10人目の顧客となった。また、北大氏魯山人の親友にして、著名なコレクター秦秀雄さんの知遇も得た。若い新倉さんの鑑識眼が認められたからである。
■社長業とJC
大学4年のとき父親が起業し、測量・土木設計・開発許可申請業を始めていた。大学卒業を控え、「仕事を手伝うか」と水を向けられた新倉さんは、家業を継ぐ決心を固め、東京測量専門学校に進学。一年間ハードな勉強を重ね、測量士補の資格を取得した。
25歳のときに父親の会社を法人化して、新倉さんが社長に就いた。
当時、砂利採取事業の手続きを中心とする仕事がかなり繁忙だった。また、採取企業は数年で事業の許可を取り直す必要があるため、付き合いが長くなり、「社長就任から40年来の付き合いの企業も数社ある」という。
同じ年、市内青年経済人のまちづくり団体である相模原JCに入会。地域貢献活動に汗を流し、メンバーと語り合う経験を重ねつつ自己研さんに励んだ。
30歳のときにはJCの友人と共同で、市内初のペット霊園を開設して、ことしで34年目を迎える。
■法人会活動
若い日のまちづくり活動の経験は、60代半ばを迎えた今でも色あせることのない強い印象を残している。
「法人会の振興に大きな功績のあった稲場前会長の後任という話があったとき、かなり悩んだが、引き受けようと決めたのは、JCでの体験で地域貢献活動の意義とやりがいを知っていたから」と語る。
法人会では総務委員長、常務理事を歴任した。近年、全国で法人会の会員数は減少傾向にあり、相模原法人会も正会員3072社、賛助会員153社と、最盛期に比べて半減している。会員増強は喫緊の課題だ。
会長就任あいさつでは、会員増強への現メンバー一体の取り組みを呼びかけ、本部と各支部の公益事業を通じた地域貢献への強い意欲も語った。「市民と一緒に楽しむ活動をしたい。それが地域振興につながり、会員の人生を豊かにすると思う」。
法人会として、市のまちづくに積極的に参画したいという思いもあり、「そのためにも市民に対し、法人会の知名度を上げなければ」と課題を挙げる。
また、企業主が法人会に入会する具体的なメリットについては、「積極的に事業に参加することで異業種交流を経験できるし、さまざまな役立つ情報を得ることもできる」と言葉に熱をこめる。
■「あるがまま」
40代の頃から毎年節分に、その年の座右の銘とする言葉を墨書して事務所に掲げている。一昨年は『知足安分』。自分の分を知り、それに安んじる意味である。だが、昨年は1月に38年連れ添った愛妻を失った衝撃が余りに大きく、『あせらず なまけず 南無阿弥陀仏』という言葉で悲しみを乗り越えようとした。
今年は『あるがまま』。
「飾らず、一生懸命生きることが妻への供養になると思う」と語る新倉さん。生きることにも、新たな社会的職責にも自然体で力を尽くす。