相模原市中央区在住の神泉薫さんは2003年、優れた現代詩に贈られる中原中也賞を受賞した女流詩人(当時の筆名は本名の中村恵美)。その対象になった第一作品集『火よ!』の巻頭作品は、「真夏のアスファルトに打ち捨てられた一本のねじ。」という句で始まる。ありふれた光景を糸口にして想像の翼を広げた一編だが、このねじが捨てられた道路は詩人が住む中央区の一角にほかならない。市内のありふれた光景が詩人のインスピレーションに火をつけたと言える。神泉さんの活躍の軌跡をたどる。
(編集委員・戸塚忠良/2017年7月20号掲載)
■詩との出会い
神泉さんは1971年、茨城県常陸太田市出身。自然豊かな環境の中で成長し、町田市の玉川大学文学部に進学した。東京の夜空には星が見えないことに驚いたという。
詩と出会ったのは、英文科の授業で担当教授にさまざまな詩を紹介されたことがきっかけだった。
「たくさん読むうち、言葉の持つ魅力に惹かれるようになりました。短い言葉の背景に広い世界を感じて、詩のスタイルに心を動かされました」
20歳の頃から詩を書くようになり、卒業後は「30歳になるまでに自分の詩集を作ろう」との思いを胸に秘めて、学習塾の事務職を務めながら詩作に励んだ。相模原に住み始めたのはこの頃であり、やがて結婚、出産した。
■中原中也賞受賞
最初の詩集『火よ!』は2002年、30歳のときに出版された。散文詩22作品が収められている。
巻頭の「ねじに関する考察」をはじめ、風に揺れる一本の木に人間の生を重ね合わせた随想風の作品、名作や歴史事象を素材にして想像力を羽ばたかせた作品、風に言葉遊び風の掌編など作者の自由な発想を示す多彩な作品がちりばめられている。
書名につながる「火」には「…肝心なことは、大きく息を吸って「火」と発語すること。そうすれば、ことばは独自のスパークを放ち、わたしたちをはるか高みへ連れ去ってくれるでしょう」との一節がある。
また、「讃歌」では間もなく生まれてくる子供への想いを、「火よ!お前の奥に芽生えた柔らかな火よ!その鼓動よ 緩やかに流れていく日々をお前の生長が区切っていく」とうたった。
夭折した中原中也の詩に「生きることの悲しみ、成熟しない若さの魅力」を感じていた神泉さんにとって、その人の名を冠した文学賞を獲得したことは大きな励みになった。
04年には『火よ!』の英訳詩集、05年に詩集『十字路』を刊行した。
07年には詩人が自分の肉声で作品を朗読するグループ「詩人の聲」に参加し、今も活発に活動している。
■『あおい、母』
神泉さんが詩作する上でいちばん大切にしているのは、「物をよく見ること」。「人は日常、物と出会って何気なく通り過ぎてしまう。しかし、物をいつもとは異なる視点でしっかりと見ることで、新しい世界が広がるかも知れない」からだ。
「物と言葉が一体になる瞬間があります。私の経験で言うと、娘が二歳のとき、空を指さしながら初めて『ソラ、ソラ』と言って笑った瞬間に、この子の意識の中で物と言葉が本当に一体になっているのだなと感じました。それが世界を経験するということだと思います」
12年には『あおい、母』を出版。
「このかけがえのない大地を(汚シタノハ誰?
そっと歩き始めたあなたもろ手を水平に伸ばして少し離れた母の胸元へと
あゆむ
―おいで
―もう少し」
と、幼子への愛情をありのままにうたった作品をはじめ、パブロ・カザルス、マザー・テレサ、世界の神話などに発想の源を求めた作品、そして現代世界のありように対する気づかわしさや宗教的感情が色濃く漂う作品を収載。
また、東日本大震災と同じ年に他界した父親への挽歌など、人間の生と死を見据える視点もうかがわせるこの詩集は、12年度の茨城文学賞を受賞した。
翌年幼児向け絵本『ふわふわ ふー』を発刊。タイトルには、ふわふわという柔らかな感触が幼い子どもを包む愛と優しさそのものであり、生きる喜びにもつながるとの思いをこめた。
■故郷の大使も
神泉さんにはもう一つの顔がある。常陸太田大使だ。北茨城に位置する人口5万人の生まれ故郷から委嘱されて観光振興や活性化に協力している。
7月からは活動の幅がさらに広がり、調布FMラジオ番組でパーソナリテイーを務めている。
相模原に住んで約25年。「住みやすい街だと思います。公園も多く、子育てもしやすい環境」と、子供会活動に参加した経験もある母親の率直な感想を口にする。
すでに高い評価を得ている市内在住の詩人が、これからも長く読み継がれる作品を紡ぎ出していくことが期待される。