このほど橋本倫理法人会の会長に就任した谷昭次さん(45)は、大学卒業後、コピー機のメンテナンスを担当するサービスマンから行政書士に転身し、2013年に生家の養鶏業を受け継いだ異色の経歴を持っている。愛川町で鶏卵の生産と出荷にいそしむ一方、多くの先輩経営者に囲まれつつ倫理法人会の運営に意欲的に取り組む谷さんの活動を支えているのは、「利他」の精神。働き盛りの新会長にこれまでの歩みと利他への思いを語ってもらった。
(編集委員・戸塚忠良/2017年11月1日号掲載)
■技術職で社会に
谷さんは戦国時代の武田と北条の戦いで知られる愛川町三増の出身。生家は父・邦昭さんが創業した養鶏農家で、県内の14軒が集まって作った神奈川中央養鶏農業協同組合の組合員。今でも当時と同じ第三十一作業所という商号で養鶏を続けている。
小さいころから卵拾いやひよこへのワクチン注射などの手伝いになれていた昭次さんだが、「次男だったから家業を継ぐ気はなかった」と回想する。それでも養鶏業の大変さは肌で感じとっていた。
県立愛川高校に学び、数学が好きだったこともあって東海大工学部に進学。みずから「どちらかといえば安定志向型で、ばくちめいたことは嫌い」と評する通り、「将来は研究機関に就職するか、公務員になろうと漠然と考えていた」という。
だが、人と接することを楽しいと思う気持ちも強く、卒業後の進路を民間企業に決めて神奈川リコーに就職。コピー機のメンテナンス業務に携わることになった。技術職だがセールス担当者と同行することもあり、営業の仕事のきつさを感じることもあった。
■行政書士開業
サラリーマン生活を送るうち、独立起業の思いが深まり、司法書士への挑戦を開始した。しかし、志と異なり、なかなか試験に合格しない。そこで行政書士に方針を変え、30代後半のとき資格を取って橋本で開業した。
「愛川町に比べて相模原は個人事業所がずっと多いのが、橋本に事務所を開いた理由。お客さんを見つけられるかという不安が無くはなかったが、何とかなるだろうと楽観的に考え、車と自転車で毎日営業して回った」
有資格者という肩書があるだけに、飛び込みでも企業主に邪険に扱われることはなく、次第に客も増え3年ほどたつと安定経営の道が開けてきた。そのまま行けばこの仕事で後半生を送ることになったかも知れない。
実は、この時期に橋本倫理法人会との絆が生まれた。「ある経営者に入会を勧められた。信頼できる人だったこともあり、資質を磨いている経営者たちの仲間に入ろうと思った」という。入会したのは5年前、40歳のときである。
■養鶏業を継承
ところがその後、兄が家業を継がないことになり、谷さんは迷った末に養鶏事業に転身することを決断。3年前に父親と同じ協同組合に属する第四十一事業所を立立ち上げた。
「兄が継がないとわかって父親ががっかりしている姿に気持ちが動いたこともあるが、中央農協の共同購入、共同販売方式は事業としての養鶏業の基盤を支えており、自分は生産に集中すれば持続的な経営が成り立つと考えた。また、神奈川県では養鶏用地が少ないため、外から企業が進出するのは難しいから、ここで安定的に経営できるはずだと思った」
創業3年目の今は約4万羽を飼育し、毎日3万5000個ほどを出荷している。「父や同じ組合の先輩にノウハウを教えてもらいながら着実にやっている。これからもなんとかやっているのではないかと楽観的に考えている」と、端正な顔をほころばせながら明るく語る。
■利他の意識
かじ取り役を担うことになった橋本倫理法人会の現在の会員は、幅広い業種の経営者を中心にした54人。
「研さんを通して会員の企業を元気にして地域の発展に貢献するのが会の目標。おたがいの意見に耳を傾けて、独善に陥るのを防ぐことも心がけている。私自身も仲間の話を聴いて目からうろこが落ちる経験を何度もさせてもらっている」と異業種交流の効用を語り、会長としての抱負を「会員のために精一杯の力を尽くし、みんなを幸福にしたい」と明かす。
この思いは、「自分が地域のため、社会のために役立っているという意識を持てる経営を持続することが何よりも大切。その気持ちが社会貢献へのモチベーションを高め、利他の意識に基づく事業を実践することにつながる」という信念に支えられている。
利他の意識が自分を高め、社会貢献の基になるという考えを会の活動に色濃く反映させるため、若い力を存分に発揮するに違いない。