10月22日の衆議院総選挙で4期目の当選を果たした赤間二郎氏(自民党)は、第四次安倍内閣で内閣府副大臣を務めている。第三次安倍内閣では総務省副大臣を務め、10月の総選挙直前に内閣府副大臣に就任した。このほかにも自民党副幹事長、政務調査会総務部会長などの要職をこなしてきた。政治家としてキャリアアップを重ね、公務に忙しい日々を送る49歳の働き盛りだが、生まれも育ちも相模原市。「愛郷心はだれにも負けません」と胸を張る赤間氏に、国政にかける思いを聞いた。(編集委員・戸塚忠良/2018年1月1日号掲載)
■31歳で県議に
相模原市に生まれ、横山小、清新中に学んだ赤間氏は県立相模原高校に進学。第20期生で、今も同窓会役員に名を連ねている。立教大学経済学部に進んでからは体育会ボクシング部に入って大いに活躍し、卒業後は英国マンチェスター大学大学院で学位を取得した。
政治の世界に飛び込んだのは31歳のとき。周囲に推されて神奈川県議選に立候補し当選した。「県議を務めていた父・一之氏の背中を見ながら育つうち、少しずつ政治に対する関心を深めた」と回想する。4年後の県議選では相模原市選挙区でトップ当選を果たした。
■国政の第一線に
政治活動の舞台が大きく広がったのは2005年の衆院選から。公募による候補者選定という手順を経て自民党公認候補として出馬。下馬評では不利が伝えられるなか、民主党の大物を破って初当選を飾った。
中央政界に第一歩を刻み、総務委員会で国政の課題と施策を猛勉強する日々を送った。
次の選挙では惜敗という試練も経験したが、12年の選挙で議席を回復。14年には党副幹事長に登用され中堅議員としての地歩を確立した。同年の総選挙で3期目の当選を果たすと、安倍内閣の総務大臣政務官に任じられ、その後、党国対副委員長を務めた。
16年にはさらにステップアップして総務副大臣に就き、消防をメインに、情報通信、放送・電波、宇宙政策、郵便に関する国策の立案・計画を担う立場になった。
国際会議に出席する機会も多く、「国益を第一に考え、相手国と粘り強く話し合いました。会談では、タフな相手もいました」と語る。
今年3月には72年の断交後、初めて政府高官として台湾を訪問。日本の魅力をPRするイベントの式典に出席して歓迎を受けた。
■17年選挙秘話
そして、突然の衆院解散に揺れた17年秋。解散直前、思いがけない事態が生じた。前任者が希望の党へ離党したのをうけ、解散の前日に内閣府副大臣に就任したのである。党機関紙は「危機管理の経験と清潔さで緊急抜擢」と報じた。
内閣府副大臣は防災に始まり、消費行政、科学技術、原子力政策、沖縄基地負担軽減など、幅広い分野を担当する。総務副大臣として「消防」を担当した経験と、副大臣経験者でいわゆる「身体検査」に問題ないとして白羽の矢が立ったのである。
北朝鮮の挑発が続いているなか、危機管理を管掌する副大臣となれば公務最優先は当然で、自身の選挙中、地元に張り付くことが難しくなる。それにもかわらず赤間氏はただちに、この重責を担う気持ちを固めた。
「選挙が心配だから公務を断るというような政治家を国民は信用してくれるでしょうか。どんな時でも公務を誠実に実行するのは当然です。ブレない、逃げないというのは政治家の矜恃(きょうじ)であると思います」
こう明快に語る口調に少しの曇りもない。しかし一方で、「選挙期間中、いつ本人不在になるかわからないプレッシャーがあった。副大臣就任を落選の言い訳にはできない。これまでの選挙で、最も精神的に厳しい選挙戦だった」と振り返る。
■時代をリード
選挙後、再任された内閣府副大臣は国が直面する“旬のテーマ”に対処するため、省庁横断の政策立案の最前線に立つ重責。「これまでの経験を最大限に生かしたい」と意欲満々だ。
みずからの政治姿勢を「国益を懸け、時代をリードすることに全力を尽くす」と語る赤間氏は、ふるさと相模原の未来についても「15年、20年先を見通した振興策を考えることが大事」と力説し、「リニア新幹線駅設置、補給廠の一部返還といった明るい材料を活用するためには業務系企業の進出を図る必要がある」と展望する。
永田町の議員会館の事務所には連日、資料やデータを持ち込む官僚をはじめ、陳情に訪れる人たちなどがひきも切らず、公務に忙殺される毎日が続くが、壁に貼った相模原市の未来マップと大凧まつりのポスターは地元への愛着を物語る。自身も元旦の名物行事、相模川での寒中水泳大会には20年近く参加している。
「今ほっと一息つけるのは、夏休みに長男の雄二郎と一緒に海で捕まえたハコフグに餌やりをするとき」と笑う。