「施策の優先順位を変え、暮らし・福祉優先の県政へ」─日本共産党神奈川県議団(6人)の一員、藤井克彦さん(58)はこう訴える。黒岩県政に政策転換を求め、「県政は県民から離れている」と批判する。相模原市南区選出で、県議は1期目だが、市議5期20年の経験を持つ藤井さんに、共産党に入党するまでの経緯とこれまでの重点活動、そして現在、力を入れている活動について聞いた。
(編集委員・戸塚忠良/2018年5月20日号掲載)
■入党まで
伊勢湾台風が大きな傷跡を残した1960年に名古屋市に生まれ、東京で育った藤井さんは、都立駒場高校を卒業後、早大法学部に進学。過激な学生運動の余燼(よじん)が残る時期だったが、「大学に入った頃はノンポリで、政治意識はほとんど無かった」という。
だが、新入生の入部勧誘の「何でも相談コーナー」に立ち寄ったことが大きな転機になる。
「とても親切な先輩がいて、いろいろと親身になって教えてくれて感激しました。知的好奇心や向学心を刺激され、『さすが大学生は高校生とは違うな』と、とても新鮮な感じがしました」
その学生は同じ学部の2年先輩で、構内でよく顔を合わせるようになった。だが、「その人に共産党のチラシを見せられても、初めのうちは強いアレルギーがあって、見向きもせず、逃げ出したほどでした」という。
しかし、「法学部の学生自治会が学生の環境改善のために真面目に取り組んでいて、共産党と連携する青年組織日本民主青年同盟(民青)の人たちがその活動の先頭に立っていたことに、信頼感を抱くようになりました」。
さらに、先輩の真摯な人柄にひかれるものを強く感じるにつれて共産党への親近感が増し、「政府が有事法制の研究に着手したこともあり、政治の右傾化が進んでいる、このままではいけないという思いを深め、1年生の後半、入党しました」。
ノンポリ学生が共産党に入党するまでにこんな経緯があった。
■市議20年
卒業後は一般企業に就職し、その後、神奈川県の公立学校の事務職に転じ、旧津久井郡の学校に8年ほど勤めた。
そんな中、市議選の共産党候補者として白羽の矢が立ち、立候補することになった。95年、35歳のとき初めて選挙に挑み、当選を果たした。
市議時代に強く記憶に残っているのは、「一期目に、新キャタピラー三菱社に対する固定資産税徴収漏れを取り上げ、それを受けて市が交渉して是正され税収増を実現したことです」と語る。
また、「市民に温かさを感じてもらえる活動をしたい」という気持ちも強く、住民からの相談に耳を傾け、その中から市の抱える課題を洗い出すことに努めた。
その一つが差額ベッドの問題。「市立病院の無い相模原市では、入院するとき大きな経済的負担になる差額ベッドの利用を求められることが少なくありません。これがどうにかならないかという声が多く、議会で改善を求める発言をしました」。
また、市南部地域の集まりで市政について発言した際、ある市民から「共産党の議員がこういう場に出てくることは、針のむしろに座るようなものだったと思うが、あなたはずっと出てきていた。今の発言であなたの気持ちがよくわかった」と声を掛けられ、「うれしかったですね」と回顧する。
結局20年間、市議会共産党の議席を守った。
■県議で活躍中
共産党が県議会で議席ゼロの状況だった2015年、議席復活を目指して県議選に臨み、県内の仲間とともに議席を回復した。共産党はゼロから6議席獲得の躍進だった。
しかし、党県議団は県議会の海外調査を批判したことを契機に16年、議会運営上の問題により、他会派から「猛省を求める決議」を突き付けられた。「県議会の3年間は、議会の公務である委員会視察から事実上排除されたり、『猛省を求める決議』を上げられたりと、市議会では経験したことのない出来事の連続でした」と振り返る。
それでも、県政野党として今年2月の予算審議では「生活保護の削減ではなく、低所得世帯の支援を」「介護保険料軽減、特養の増設・介護職の処遇改善」「学童クラブの指導員に県の財政支援を」などを訴え、予算案に反対の立場を堅持している。一般質問でも医療・教育・福祉の充実を求めた。
党の姿勢に沿った議会活動を続けつつ、藤井さんは市の抱える問題にも取り組んでいる。
「一つは境川の改修です。東京都管理区間では時間降雨50ミリに対応する整備が終わっているのに、県管理区間ではまだ30ミリ対応のままで、この状態を改善することは相模原市、町田市も強く要望しており、県議の立場で県に改善を要望しています」と力を込める。
また、市内の県立高校に足を運んで深刻な実態を調査し、15年9月の代表質問で改善を要望した老朽化対策は、翌年度から2年間で40億円の老朽化緊急対策事業の予算化に結実した。
こうした活動の根底にあるのは、「憲法改悪を阻止し、市民、県民の生活と平和を守るための灯(ひ)を消してはならない」という思いだ。