八木大二郎氏、町長・市議を経て県議に/「命と暮らし守る」が信念


趣味は渓流釣りという八木さん

趣味は渓流釣りという八木さん



八木大二郎県議(54)は城山町職員から町議に転身し、相模原市との合併問題で町論が二分していた2006年、合併推進を掲げて城山町長選に挑み、42歳の若さで首長の座に就いた。合併実現後は市議を務め、さらに11年、15年の県議選で当選して現在、2期目を務めている。地方分権と、自治体、議会のあるべき姿を実現する目標を抱いて政治の道を歩み始めてから15年。「政治の要諦は人々の命と暮らしを守ること」という信念を崩すことなく活動を続けている。

 

(編集委員・戸塚忠良/2018年6月1日号掲載)

■職員から町議へ

1963年7月生まれの八木さんは、生まれも育ちも旧・津久井郡城山町で城山町役場に就職。町職員時代には防災、環境保全、広報、都市計画など幅広い分野の仕事に携わった。

だが、国の施策と住民の要望との間にギャップがあると感じ、「もっと財源と権限を自治体が持てば、住民が本当に必要とする行政サービスを提供できるのではないか。そのためにはまず自治体職員が政策能力を高める必要がある」と考え、職員の研究グループを立ち上げた。また、三菱化成社長や日経連会長を経て第三次行革審会長を務めていた鈴木永二さんに声を掛けられ、全国的な草の根の地方分権運動に参加し、相模原でのシンポジウムの実行委員長を務めるなどした。

しかし、地方分権への強い思いは、分権に耐える自治体をいかに作るかという壁に突き当たる。そして、「足元でどんな具体策が可能か」と考えたとき、「市町村が最も強い権限を持てる政令指定都市を目指すべきではないか」という結論に達した。

この思いを実現しようと2003年、「相模原市との合併で政令指定都市をめざす」という公約を掲げて城山町議選に挑んだ。当時、誰も考えない無謀な政策公約だったが、結果はトップ当選だった。

■町長・合併実現

このころから町は合併をめぐって賛否両論に分かれ06年、合併に反対する町長のリコールが成立。その後の町長選に出馬した八木さんは、合併推進を主張して多くの支持を集めて当選した。

翌07年3月には市と城山、藤野両町との合併が実現し、合併の推進力となった八木さんは同時に、町政の幕引き役を務めることになった。

「閉町式では自分の手で町政を閉じるさびしさを感じ複雑な心境でした。その反面、新しいまちづくりを始めなければならないという信念もありました。もう一つ忘れられない思い出は、合併記念式典で重篤な病のため車いすで出席された当時の小川勇夫市長が、声を絞り出すように『次は政令市だ。頼む』と私や知事に話されたことです」

■政令市の市議に

合併により退職した八木さんを県議に推す声が強かったが、本人は政令指定都市実現という初志を貫くため市議選に立候補して当選した。

市は10年、全国19番目の政令市となった。無謀ともいえる公約から7年。宿願を果たした八木さんは、すでに故人となっていた小川前市長の墓前に手を合わせた。

「合併式典で託された遺志を果たしたことを報告するとともに、政令市相模原の発展に力を尽くすことを誓いました」

■県議2期

11年の統一地方選では県議への立候補を決意し、自民党公認として初挑戦。緑区でトップ当選を果たした。当選後の会派では政務調査会副会長として政策提言と代表質問などを担当した。

15年には再選を目指して出馬。「県政進化」のスローガンのもと、議会改革、県民の命と暮らしを守るための危機管理対策の充実、次世代が定住し働く環境の充実した地域づくりなどを目標に掲げた。この選挙は無投票当選となった。

2期目は県議会の防災警察常任委員長に就任。信号機の設置や薄れた路面表示の一斉補修などのほか津久井警察署の建て替えの決定、相模原南警察署の移転新築を推進した。

一昨年7月に起きた「津久井やまゆり園」での凄惨な事件には大きなショックを受け、再発を防ぐため「憲章」の制定を提案。「ともに生きる社会かながわ憲章」を議決・制定する推進役を担った。その後、憲章実現に向けた特別委員会が設置され委員長を務めることになる。

「二度とこのような事件が起こらないように県と議会が一体となって啓発に力を入れています」と現況を語る。

地元では5月6日、後援会が「首長・議員在職15周年を祝う会」を開催。地元経済人など約500人の参加者を前に、「私の政治活動の原点は地域をもっと良くしたい、との強い思い。だから苦難の連続を乗り越えてこられた。政治は長くても70歳までと決めている。そして次の世代に引き継ぎたい。愛する相模原のため残りあと16年で何をなすべきか考えたい」と挨拶し、一層の活躍を期待する大きな拍手を送られていた。

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