郷土史研究家の涌田佑さん(91)=相模原市南区相武台=はこのほど、新戸出身のプロレタリア(労働階級)詩人・石井秀(1907〜1987)の生涯とその時代背景などに迫る講話を相武台公民館(同区新磯野4)で行った。資料の収集と関係者への取材などで調べ、手書きで作成したパネルや写真、書を130点以上展示した。
秀は地主の家に生まれて旧制厚木中学校(現県立厚木高校)に学び、上京して東洋大学東洋倫理学科に入学。共産主義に製薬会社や交通局との労働争議を応援しながら、全日本無産者芸術連盟機関紙「戦旗」や「労働派」などの雑誌に作品を寄稿した。
秀の在京期間は、大学卒業までの3年間を含めても足かけ10年程度。高村光太郎・智恵子夫妻をはじめ、室尾犀星や伊藤信吉、壺井繁治ら、数多くの文化人と親交を温めた。当時、アナーキスト(無政府主義者)が多かったとされる東洋大出身者の中で、プロレタリアを貫いたのは「政府を壊してどのような社会にするか分からない思想より、労働者の社会を目指す考え方を通したのでは」と話す。
秀の詩の特徴は「俗語を使い、呼び掛けるようで分かりやすい詩。読む人の心にすっと入ってくる」(涌田さん)。新戸地区の風物詩「大凧」「鮎釣り」には触れないが、「農民が豆粕のように搾取されている」や「足半(あしなか)を軍靴に履き替える」など農民の視点は生きている。
大地主(資本家)階級の子である秀が左翼思想に傾倒した理由について、涌田さんは「土佐藩の下級武士から高座郡の豪農層にも受け入れられた自由民権思想に、石井秀の先取性と詩が結びついたのでは」と分析する。ただし、「実家(石井家)と自由民権運動の関連を裏付ける資料を見つけることはできなかった」と加えた。
涌田さんは毎年12月中旬から翌1月上旬まで、本紙で連載している「相模近代人物評伝」で扱ってきた尾崎咢堂、伊東方成、三木一平らについて、同公民館で資料展示と講話を行っている。近年は市内の周辺地域や隣接する座間市などの公民館に招かれ、各地ゆかりの人物や郷土史に関する講演会を開く機会も増えているという。