相模湖(相模原市緑区)近くの若柳で、世界トップクラスの辛さを持つ唐辛子が栽培・生産されていることをご存じだろうか―。ギネス記録で世界一辛いと認定された唐辛子「ブット(ブート)・ジョロキア」の加工に初めて成功した竹内僚さん(40)=七海交易代表=。現在こそ大手加工食品メーカーや外食チェーンなどとの取引があるが、鮮やかに赤い〝悪魔の実〟の呪いは一筋縄では行かなかった。
◇悪魔の実との出会い
高校卒業後、18歳でバックパッカーとして世界を旅し、24歳の時にバングラデシュを初めて訪問した。この時の印象を「カオスという一言では語れない。行った者にしか分からない異常さがある」と語っており、2年後に竹内さんの人生を大きく動かす悪魔の実に出会うとは思ってもいなかった。
2年後、日本の専門商社に務めながら、法政大の通信制で経営を学んでいた。再びバングラデシュの土を踏むきっかけとなったのが、遊戯機器のリサイクルを手掛けていた企業から「現地法人の経営者と共同でやってほしい」との依頼だった。
竹内さんはダッカの大学に編入し、勉強を続けさせてもらうことを条件に引き受けた。自身の著書で「バングラデシュ人の性格や国を多少なりとも知っている私は、この時から嫌な予感がしていた。(中略)何故かイエスの返事をしてしまったことに、後にどれほど悔いたことか」と記している。
26歳で70人の従業員を管理する責任ある立場だったが、上司とのすれ違いで会社を離れた。帰国して本社に勤務することも勧められたが、「自分の力で生きていく。成功するまでは日本に帰らない」と日本を出た手前、バングラデシュに留まるしか選択肢はなかった。
転機は1通の電子メールだった。「ブット・ジョロキアという世界で一番辛いとされる唐辛子の種は手に入りますか」という京都府で篠ファームを経営する高橋成(みのる)社長からの依頼だった。高橋社長は国内で初めてハバネロの栽培に成功し、地域の特産品として定着させている激辛ブームの〝火付け役〟だった。
ジョロキアは2006年、激辛の唐辛子ハバネロに代わって世界一辛いスパイスの記録を塗り替えた。インド北東部やバングラデシュなどを原産地とする唐辛子で、アッサム語で「悪魔の唐辛子」の意味を持つ。
インド北部のアッサム州とその周辺が産地であると知り、ダッカから37時間、5本の長距離バスを乗り継ぎ500㌔かけて同州の州都グワハティの土を踏んだ。ジョロキアは思いのほか簡単に見つかり、路上のマーケットでキュウリと並べて売られていた。
「種を採って、日本に送れば仕事は終わり」と安堵した時だった。同行していたビジネスパートナーのAは突然、「この唐辛子ならバングラデシュにもある」と言った。
日本はハバネロを使ったスナック菓子をきっかけに激辛ブームに火が付き、唐辛子市場の拡大に期待も膨らむ。ジョロキアについて、「ハバネロを抜いて世界一辛い唐辛子になったのだから、栽培して、加工して粉末を作れば絶対に売れるだろう」と起業と生産の準備に取り掛かった。
ブートジョロキアの辛さ(スコヴィル値)はタバスコの400倍、ハバネロの2倍。実に触れなくても、体が火傷したかのようにズキズキと痛み、肌がただれる。汁は暴徒鎮圧用の催涙弾に使用されるほど。ジョロキアの微粉末が周辺住民を襲い、苦情や脅迫を受けたこともあるという。
従業員の中には痛みの余りに号泣する者、「手を切り落としてくれ」と叫ぶ者もいた。ある者は塩を塗し、またある者はレモン汁をかけるなど、それぞれ独自の方法で痛みを紛らわせる努力をした。
加えて、バングラデシュはとても気温が高く、湿度も高いため乾燥に適した環境ではない。頼みの綱となるのが電気式の乾燥機だが、電力事情がとても悪く3時間のうち1時間通電しか来なかった。太陽光の熱で温度を上げ、空気の循環を作り、湿った空気を外に出す装置で解決した。
順調に生産できたのは最初の4日間だけ。最大風速100㍍に達したサイクロン「アイラ」で工場は浸水し、苗はすべて流されてしまった。キャッシングで従業員の給料を賄うと、事業を再開する資金と借金の返済を稼ぐために帰国を決意せざるを得なかった。
失意の底で、やり残していたことを一つでも片付けようと大学の卒業論文を書き終えた時、思いがけない人から電話があった。バングラデシュに竹田さんを送り出した張本人だった。現地法人をたたみ、日本の本社も経営が傾きつつあり、会社を再建する手伝いをしてほしいとの依頼を受けた。
帰国後は、注文を受けた企業を謝罪して回った。「怒鳴られるようなことはなく、励ましの声を掛けてもらえたことはうれしかった」と振り返る。「来年こそはしっかり作ってきます」と言ったものの資金づくりのめどは立たず、借金だけが残っていた。
復職した会社の給料をすべて返済に充て、半年かけてキャッシングの支払いを終えた。しかし、次年度のジョロキア加工の資金を捻出できるわけもなく、一番借りやすいと聞いていた政策金融公庫に事業計画書を持ち込んだ。唐辛子づくりの熱意を伝えたが、よい返事はもらえなかった。
最後の望みだった信用保証協会の扉を叩いたことが、夢への扉も開くきっかけとなった。事業説明の担当者が、バックパックを背負って世界を旅した経験者だった。意気投合して熱意も伝えやすく、次年度の事業資金を信用金庫から借り入れることができた。
しかし、悪魔の実の呪いは終わりでなかった。共同経営者だったAとは「苦労を共にし、一緒に夢を見てきた」と思っていた。家族とも親しくしており、母親はわが子同然に扱ってくれた。そのAが事業資金の100万円を横領していたことが発覚した。
日本で待っていた竹田さんの元に唐辛子が届かず、取り戻すためにすぐにバングラデシュへ引き返した。唐辛子の粉末がすべてだった。「意地でも成功してやろう」と必死になって作った畑と工場を流され、再起を賭けて資金を集めて暑さと痛みに耐えて作った文字通りの〝汗と涙の結晶〟だったからだ。
Aから粉末を回収した後は、自身の手で輸出が済み、成田空港に無事荷物が到着した。カビや残留農薬、細菌類、重金属など複数項目に渡る食品検査も通過し、ようやく製品として販売できる段階に辿り着いた。しかし、辛い食品に人気があっても、ジョロキアの知名度が低く売れなかった。
週の前半は借り入れの返済のためにリサイクル会社で働き、後半はジョロキアの知名度を広めるためにマスコミや企業、レストランなどへの営業に充てた。次年加工分の唐辛子を栽培し始めたものの、在庫が残り、加工を断念せざるを得ないと覚悟していた。
吉報をもたらしたのは、またしても高橋社長だった。大手食品加工メーカーからの引き合いで、契約が決まれば次年の事業が継続できるほどの大口注文だった。NGだったら廃業する覚悟で検査用のサンプルを送ったが、結果は念願の「合格」だった。
そのメーカーとの契約は一度切りだったが、竹内さんとバングラデシュの唐辛子は大手メーカーのカレールーやインスタント食品などに採用されている。過去には相模原市内の高座豚手造りハムとのコラボも実現した。ジョロキアの国内シェアは当初ほぼ100%だったが、大手が輸入する中国産などに押されて7割程度に落ち着いている。
ジョロキアは11年に世界一の座をインフィニティ・チリに譲った。ジョロキアは自然交配で生まれた品種だが、インフィニティ・チリはジョロキアを元に異系交配されて作られたもの。その後も人工的に開発された唐辛子が記録を塗り替えていったが、日本では話題にならなかった。
竹内さんは「品種改良は遺伝子組み換えとは違い健康などに害があるわけではないが、話題性に欠ける」と分析。ジョロキアからインフィニティ・チリの栽培に乗り換えた国内農家もあったが、ジョロキアの栽培を再開させたからだ。
相模湖地域と山梨県大月市などで、ジョロキアの2倍の辛さとされる「キャロライナ・リーパー」などの粉末計㌔250㌔を生産。「バングラデシュで失敗した経験をもとに、リスクを分散する危機対策を意識するようになった」と、14年から国内でも唐辛子の栽培を始めた。
コロナ禍でバングラデシュへ渡航できず、竹内さん不在の工場ではジョロキアの生産・輸入を行うことが不可能。国内生産が功を奏して取引先への納品は滞っていないそうだ。来年も渡航できない可能性を視野に入れてジョロキアの国内生産も考えているそうで、種を採るための実を育てている。「コロナが続く限り、意識的には国産化を進めていく」と話す。
国内で生産した唐辛子は、竹内さん1人が大月にある加工工場で洗浄・乾燥・粉砕を行い、自宅の隣に設けた工房でパッケージ詰めしている。設備を増設し、これまでの1日当たり50㌔から70㌔まで生産できる環境を整えた。
国内や先進国の製造業や農業ではリモートワークやAI・自動装置の導入の検討が進むが、わずかな毛髪の混入、内部やひだに発生したカビ、小さな虫穴は人間の目でしか判別できない。乾燥後のわずかな水分量の違いも、竹内さんが長年の経験で培った感覚でチェックしている。
「辛い物はあまり好きではなかった」という竹内さんは、激辛唐辛子の栽培について「天職」と断言する。貿易・経営・農業に加え、ベンガル語を話せる強みを挙げ、「バングラデシュでの食品生産、暑さや激痛に耐えながらの過酷な作業をできるのは日本を探しても私1人だけ」と胸を張った。
「耕作放棄地の活用や市内での契約栽培を増やしていきたい。農家の所得が増えるので、地域の活性にも繋がるはず。相模原を唐辛子の一大生産地にしたい」と、竹内さんの夢は尽きない。
【2020年9月20日号】