かながわ考古学財団(本部=横浜市南区)は10月21日(設立記念日)、「小田原北条氏の境目の城」と題した設立30周年記念シンポジウムを相模女子大学グリーンホール(市文化会館、相模原市南区相模大野4)で開いた。同市教育委員会(市教委)の齊藤真一さんが甲斐武田氏との境目にある「津久井城跡」(緑区)の発掘調査について事例を発表したほか、県内や伊豆半島(静岡県)の城跡について議論を深めた。【2023年11月1日号掲載】
齊藤さんは発表で、上溝に伝わる仕事唄「ぼうち歌」(市登録無形民俗文化財)に「津久井の城がおちたげな」という歌詞があることに触れ、「1590(天正18)年の小田原合戦で徳川勢に包囲され、籠城戦の末に落城した様子が歌われているのではないか」と説明した。
発掘調査では、地形を巧みに利用しつつ石材を多用した堅牢な城郭施設や、庭園を伴う城主館など、戦国期の遺構群が良好に残ることが明らかとなった。金の加工や庭園に特化した曲輪(くるわ)の存在など同城の特徴が浮き彫りとなり、城主内藤氏が北条氏家臣団の中で北条一門や家老に匹敵する地位を得られた背景が分かるとする。
同城の保存目的調査は1963年に津久井ダム建設に伴って県教育委員会による調査が始まり、96年からは津久井遺跡調査団、2009年からは市教委が継承。市民との協働による継続的な調査の取り組みが大きく、全国的にも珍しい事例だという。齊藤さんは「今後も市民の手によって歴史を掘り起こし、境目の城の実像に迫りたい」と結んだ。
同城は、緑区根小屋・太井・小倉の3地区にまたがる、独立峰状の「城山」と呼ばれる標高375㍍の山に築かれている。八王子から東海道に至る八王子往還と、江戸方面から津久井を横断して奥州街道に達する津久井往還が交わる交通の要衝に立地。西は甲斐(山梨県)、北は武蔵(東京都、埼玉県など)に面し、小田原北条氏としては甲斐武田氏との「境目の城」として重要な拠点だった。
このほかシンポジウムの前半では、河村新城(山北町)、河村城(同)、山中城(静岡県三島市)の事例発表や、歴史をテーマとした地域活性化に取り組む山城ガールむつみさんの報告もあった。後半は滋賀県立大学名誉教授の中井均氏による記念講演の後、登壇者によるパネルディスカッションも行われた。
同財団は、1993年の同日に県が設立し、翌年から県立埋蔵文化財センターで実施していた事業を引き継ぎ、埋蔵文化財調査発掘事業の受託を始めた。埋蔵文化財と向き合う発掘調査という手法で、宮ケ瀬ダムに沈んだ遺跡や、古都鎌倉を取り巻く山稜部の発掘を通して、開発に先立つ記録保存調査や、史跡などの指定を目指した学術調査を実施してきた。
県内は約3万年前の旧石器時代から活動がみられ、近代に至るまでのそれぞれの時代の文化遺産が眠っている。一方、道路建設など県民生活の向上や利便性を図る開発が進み、遺跡に及ぼす影響が大きくなっている。やむを得ず遺跡が消滅する場合には発掘調査を行い、記録保存を図ることが必要となる。同財団は発掘調査の受託とともに、県民の埋蔵文化財保護に対する理解を深めることも目的とする。
相模原市内では、青根馬渡遺跡群、川尻中村遺跡、青山開戸遺跡、原東遺跡、川尻遺跡、風間遺跡、風間北遺跡、当麻遺跡、小保戸遺跡などの発掘調査や出土品などの整理作業を行ってきた。
中島栄一理事長はシンポジムの冒頭で「遺跡見学会や成果発表会など発掘調査を体感し、多くの人に考古学、そして遺跡や遺物の大切さをこれからも知ってもらうつもり。設立30周年を節目に、埋蔵文化財の発掘調査の質をさらに高めていこうと決意を新たにした」とあいさつ。
「発掘調査に多大な貢献があった」として県内企業4社に対する感謝状の贈呈もあり、市内からはカナコー(南区麻溝台8)が対象となった。同社ホームページによると「埋蔵文化財発掘調査における試堀・発掘・報告書整理まで一貫した業務をサポートする」としている。
県内外から考古学や城のファン約1千人が集まった。市内から参加した30代男性は「相模原をはじめ、県内には歴史教科書にも掲載されている著名な遺跡が多い。遺跡や遺物を調査し、記録を後世に残す財団の活動に関心を持っていきたい」と話した。