【相模原】旧「勝瀬集落」の子孫ら湖底に眠る先祖供養/相模ダム建設で強制退去


昭和の時代に、相模ダム建設のため強制的な退去を余儀なくされた旧日連村勝瀬集落(相模原市緑区)の居住者たちの子孫による居住者会の集いと慰霊祭が5日、相模湖畔の同集落の近くにあった鳳勝寺の跡地などで行われた。集まった約30人の参列者は湖底に眠る先祖の供養を行い、先人の苦労を偲んだ。【2024年9月20日号掲載】

旧凰勝寺跡にある碑に手を合わせる参列者と住職ら

旧凰勝寺跡にある碑に手を合わせる参列者と住職ら



昭和13(1838)年に県で河水統制事業が議決され、それを受けて相模川河水統制事業がスタートし相模ダムの建設が現実化した。しかし、ダム建設には新たに誕生する湖の底に沈むことになる日連村勝瀬集落の住民の退去が絶対条件だった。住民も抵抗したが、当時は戦争中であり陸軍が圧力をかけるなどして、短期間のうちに故郷を後にせざるを得なかった。

住民は八王子市、日野市、武蔵野市などに分かれて移住したが、中でも海老名市には多くの人々が移り住んだ。彼らは自分たちの住む土地を「勝瀬」(海老名市勝瀬)と命名し、新たな生活を開始した。

居住者会会長の小川浩司さんは「海老名市は今はいい所だが、当時は畑らしい所もなく、砂利みたいな所で水も出ない、木もない。川はあったのだけれども、遠くまで水を汲みに行かなくてはならなかった。そうした先人の苦労を忘れてはいけない」と話す。

湖底に沈んだ経緯を語る小川会長

湖底に沈んだ経緯を語る小川会長



住民の退去は当時の軍国主義下での決定だった。

「電気を起こして飛行機を作って、兵器を戦争で使おうというのが陸軍の目的だった。勝瀬という所はもともと風光明媚で、お米もとれて経済的にも過ごしやすい所だった。だから退去にあたっては反対期成同盟が作られて若い人たちが反対したけれども、潰された。馬に乗った将校がサーベルをじゃらじゃら鳴らしながらやってきて圧力をかけた。『お前ら国賊か』と。軍の命令に逆らうことは天皇に逆らうことだから絶対にできない。退去は至上命令だった。こうして追い立てられるようにして、補償の対象となっただけでも85戸の家族があちこちに散った」

人々は退去し、勝瀬集落は相模ダム建設によってできた相模湖の湖底に沈んだ。やはりダム建設で海老名に移転した鳳勝寺の跡地で、いまだ湖底に眠る先祖の慰霊祭が行われた。

参加した神奈川県議の山口美津夫議員は、墓石がまだ湖底に残っていることに言及するとともに「津久井4町は神奈川県の水源地。特にここ相模湖は日本で初めての多目的ダムによる人造湖。山梨県側から毎年23万立米(立法メートル)の土砂が流入している。それで神奈川県も毎年15万立米の土砂を山梨県に持ち出している。差し引き8万立米の土砂が残るが、これに関して『なんとかしてほしい』という声を聞く。われわれとしてもこの現状を県知事に伝えて、皆さんの要望に応えたい」と相模湖に関する課題を語った。

慰霊祭の後、参加者は遊覧船で相模湖湖上を周り、往時を偲んだ。

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