旭フォークリフト、フォーク界の「4番」に/新たな夢、追い続ける


常に挑戦を続ける横江社長

常に挑戦を続ける横江社長


 甲子園のスーパースターにあこがれた、かつての野球少年は、今年6月、経営者になった。相模原市中央区田名、旭フォークリフトの横江利夫社長(39)。あと一歩で逃した夢の舞台。転機になった故障、新天地での大きな壁…。多くの困難を乗り越えることができた背景には、結果を求める熱い気持ちと、自分を冷静に分析し、長所を徹底的に磨き上げたことと、少年野球で培われた〝8軍精神〟があったからだ。横江社長は、今なお、日々新しいことを求め、会社というフィールドの上を駆け続けている。(松山 祐介・7月10日号6面掲載)

 ■原点のリトル

 出身は東京都調布市。横江社長いわく「絵にかいたような巨人ファン」だった父の影響で、野球に興味を持った。
 
「大ちゃんフィーバー」と社会現象にまでなった同郷の荒木大輔にあこがれ、小学校2年生で同じ調布リトルに入団した。
 
 8軍まであったチームで、競争社会の原点を学んだという。少しでも弱音を吐くと、即降格。けがを隠して試合に臨むことも、しばしばあった。

 毎年のごとくOBからプロ野球選手を輩出する名門は総勢約1千人。200人はいるであろう、同級生のライバルたち。

 走るのも遅いし、守備は苦手。ただ、打つことは自信があった。そんななか、このチームで生き残るにはどうしたらいいか、子どもなりに必死に考えた。

 出した結論は、野球でいう「走・攻・守」の3拍子のうち、得意な「攻の1拍子」に特化すること。自分の強みを磨き抜いた結果、6年生のときには4番に座るまでになった。

 中学時代は3年時に全国大会準優勝ながらも、MVPを獲得。実に年間打率7割8分という実績を引っさげ、名門・日大三高に進んだ。

 ■野球との決別

 名門の壁は高かった。1年秋からベンチ入りも、代打中心。同級生にはレギュラーもいて、実際に「何回も気持ちが腐った」という。それでも、リトル時代に学んだ、競争社会は結果がすべてという事実。何をすれば定位置を取れるか考え、努力を続けた。

 最も甲子園に近づいたのは2年生の秋。あと1勝で春の選抜出場がかかった大一番。最終回、エースがまさかの暴投でサヨナラ敗け。最後の夏も、夢の舞台は踏めなかった。

 敗戦の翌日、監督との進路面談があった。在京のプロ野球チームからドラフト指名の可能性もあったが、このとき、横江社長は野球をやめ、実家の宝石店を継ぐ決意をしていた。

 しかし、監督の猛烈な勧めもあり大学で野球を続ける道を選んだ。進学先の東京農大では、米・大リーグ、ヤンキースの黒田博樹投手からホームランを放つなど、首位打者も獲得した。

 卒業時にはパ・リーグ2球団から指名の可能性があったものの、肩を故障。社会人チームからの誘いもあったが、引退を決意した。

 ■再び8軍に
 
 卒業後は都内の商社に就職。営業職として、旅行や映画の仕事に携わった。3年が過ぎ、高校3年から交際していた同級生と結婚を決意。
先代社長の娘ということもあり、転職した。

 しかし、全く畑違いの仕事。戸惑いの連続だった。

 「車両の整備に使うスパナの『ス』の字も知らない」状態。職人からは「使えない」と言われ、次第に溝も拡がっていった。

 だが、ここでも結果が全てという考えと、一番下からスタートという状況が横江社長の8軍精神に火をつけた。

 「何冊読んだか数えきれないくらい」(横江社長)の技術書を片っ端から読みあさり、フォークリフトに関する資格も多数取得。経営者同士の会合にも積極的に足を運び、知らないことは馬鹿にされても徹底的に質問を重ねた。

 もがき続けて結果が出始めたのは、入社から3年が過ぎたころだった。「自分ができなかったことをやれ」という先代社長の教えを実践。当時、業界では珍しかったインターネットを使った販売網を構築。それまでは県央地域が中心だった商圏の拡大を狙った。

 ウェブ割引など独自の取り組みで「薄利多売」にシフト。顧客も関東一円に持つまでになった。入社時に150台ほどだった車両も、今では約400台を保有するまでに成長した。
 
 ■夢は全国制覇

 結果を評価され、6月に社長職を引き継いだ。

 「『フォークリフトといえば、旭フォークリフト』」と言われる会社にしたいという横江社長の夢は“フォーク屋で全国制覇”だという。

 20年前に成し得なかった夢。その夢を実現するため、社員やその家族、顧客の全てを幸せにするため「新キャプテン」は奔走を続けている。

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