〝営繕工事の110番〟と呼ばれる会社が大和市下鶴間にある。薩駿建設工業は、顧客からの電話一本ですぐに駆けつける。目指したのは、建設業界のコンビニエンス。鉄骨工事や重機のリース、塗装、家庭のふすま張替え…。社員数9人ながら、大手顔負けの幅広いニーズに対応する。創業者である竹下連幸社長(73)は今でも現場に出向く。米リーマンショック後、不況と言われた建設業界で、堅実経営を進めてきた。ここまで来られたのは、創業以来持ち続けている、ある信念があったから、という。(松山 祐介)
■小さな仕事を
生まれは鹿児島県薩摩川内市。高校時代はグランドホッケーの選手として活躍し、1959年に東京で開かれた第14回秋季国体では、選手宣誓を務めた。
選手として大学推薦の話もあったが、勉強に専念したいという理由から断った。東京経済大学に進み、府中市内の幼稚園で園長の送迎のアルバイトをしながら勉学に励んだ。
その後、都内の大手建設会社に就職。取引先は上場企業がメーンだった。高速道路料金所の看板設置や官公庁の工事など、大型の仕事に汗を流す毎日だった。
手掛けた中で最も大規模な工事の総工費は、当時の金額で約8億円。「契約書の収入印紙だけで1カ月分の給料だった」と振り返る。
大きい仕事が続く日々。きめ細かな仕事がおざなりになっている現状に疑問がわいてきた。
現場監督の大役を任されるも、実際は、現場仕事とは大きなギャップがある。いつしか疑問がわいてきた。どんなに大きな建設現場でも、結局は、細かく、そして小さな作業の積み重ねで成り立っている。「だったら、自分で手を動かして、顧客の本当の声に応えられる、仕事をしたい」という思いに変わった。
社内でも賛同する同僚がいた。偶然にも高校時代にホッケーの遠征で行った静岡県の出身で、昔話にも花が咲いた。
竹下社長が、その同僚と後輩との3人で独立したのは、1973年のこと。32歳の時だった。
■夢と理想の間
これまで在籍した大手企業を捨て、理想を持って飛び出した。野望もあった。社名は竹下社長と、同僚の出身地である駿河地方の頭文字を取って「薩駿」とした。
ところが、時代が悪かった。独立した直後、第1次石油ショックに見舞われる。原材料費は高騰するばかり。おまけに必要な材料もそろわない―。会社の金は、ほとんど底をついてしまった。目の前が真っ暗になったものの、「どんな小さい要望にも応える仕事がしたい」という、独立当初からの信念は曲げなかった。
世の中がどんなに不況でも、生活している人たちがいる限りニーズは絶対にある。改修工事、家庭の雨漏り修理…。会社として請け負える仕事は何でもやった。
それが、今の〝110番〟と呼ばれるゆえんにもなっている。「自分たちも厳しいが、相手も厳しい。信じていれば、お客さんがかばってくれる」。
■信用を武器に
竹下社長の武器は、相手を徹底的に信用すること。
どんなに資金繰りが厳しく、材料費を払えなかった時期も、発注先を信頼した。
着手金はもらったことはない。手形も切らない。代金は工事が全て完了してから受け取る。独立当初から、このスタイルは変わっていない。
厳しいのは自分だけではないと、何度も自身に言い聞かせた。そんな状況でも仕事をくれる顧客のため、誠意を貫き通した。
すると、誠実な仕事ぶりが評判となり、紹介が紹介を呼んだ。
会社が飛躍のきっかけをつかんだもの、やはり人とのつながりだった。
石油ショックの影響が冷めやらぬ74年、会社の経営状況は依然として厳しかった。
そんな折、大学時代にアルバイトをしていた幼稚園が新園舎を建設することになった。数社の競合があったが、学生時代を知る園長が、竹下社長を選んだ。
公共施設の仕事を請け負ったことで、会社としての知名度も信頼も上がり、さらなる受注増につながっていった。
■「てげてげ」で
竹下社長が大切に保管しているものがある。屋根のペンキが痛んだ部分の塗り直しをした夫婦からもらった、ご祝儀だ。
「このお金で屋根を全部塗り替えた方がいい」と言ったが、結局は受け取ってもらえなかった。それでも「その夫婦に慶弔があった時に返せれば」と、今も自宅にある。
鹿児島の方言で「てげてげ、がんばいやんせ」という言葉がある。竹下社長の座右の銘で「少しずつ頑張っていこう」という意味だそうだ。
担当した顧客には何年たっても足を運ぶ。仕事で会った初対面の人にも必ず名前で呼びかけ、その日のうちに直筆の手紙を送る。
相手の気持ちを汲み、気持ちで返す―。人に助けられてきたことの重みを知る竹下社長らしい心遣いだ。
「その人のためにできることを全力で」。独立から40年経った今も、夢を持って飛び出したころの思いは変わらない。