大型建設機械のネームプレート、OA機器や家電製品のコーション・マーク…。さまざまな場面でみかける工業用銘版。それらを手掛けるのが笠原特殊印刷(相模原市南区大野台)だ。笠原謙司社長は、33歳の時、父親である先代からバトンを受けた。大学卒業後はサラリーマン経験を経て入社。最初の5年間は苦しい修行の日々が続いた。過労で倒れたこともある。それでも続けたのは、入社当時に掲げた「会社を大きくしてやろう」という思いがあったからだ。その後も産業の空洞化、米リーマンショックと苦難が続くが、強い経営が会社を支えた。 (船木 正尋)
■町田で創業
現在53歳の笠原社長。東京・町田の出身。地元の大学で経済学を学んだ。笠原社長率いる笠原特殊印刷は、工業用銘版やステッカー印刷を扱う企業。1968年に同市で産声を上げた。
創業者は、父・清郷氏。父と母と二人三脚で始めたという。当時は従業員10人の小さな会社だった。
それでも、64年に開催された東京五輪特需などの影響を受け、国民総生産が西ドイツを抜いて2位に躍り出た時期。高度成長期の真っ最中だ。
笠原社長は「当時は仕事で忙しく父や母が常に働いていましたね。そうした親の背中を見て、どんな会社でもいいから、経営者になってやろうと思っていました」と振り返る。
大学時代は、そうしたいの中、会計学や金融論を学んだ。今もこうした知識が社長業に役立っているという。
■修行の日々
大学卒業後は、大手ソフトウエア会社に就職。5年間、サラリーマン生活を送ったが、母の他界を機に笠原特殊印刷に入社。「入社したからには会社を大きくしてやろう」と意気込んだという。
だが、最初の5年間は辛かった。印刷技術を学ぶため、昼夜を問わず、がむしゃらに働いた。
誰のためでもない自分のため、何よりも会社のためと思い、休みも仕事に充て修行の日々を送った。こうした経験のおかげで、どんな印刷もできるようになった。
3年目からは、印刷修行の傍ら、営業にも奔走した。「父に『自分の給料は自分で稼げ』と言われましてね。営業に出ました」(笠原社長)。
新たな顧客獲得のため、神奈川、東京の電機メーカーなどを中心に訪ね歩いた。気が付くと1カ月で靴底が大きく減っていた。
粘り強い営業のおかげで、次々と取引先を拡大していった。今の顧客の8割は、この時に獲得したという。
しかし、修行5年目を迎えたころに悲劇は起こる。過労が原因で髄膜炎になったのだ。
「もう少し遅ければ、この世にいませんでしたね」と苦笑する。
結局、1カ月の入院を余儀なくされた。笠原社長の心境を語る。
「現場に戻れなく、気持ちばかりが焦っていました」と。
■逆風は続く
さらに追い打ちは続く。円高の影響で、取引先の大手電機メーカーが続々と海外工場へ生産移転。
本格的な「産業の空洞化」が始まった。
こうした事態に対処するため、笠原社長は携帯電話やパソコン関連部品の会社に売り込みをかけた。そのときはこの戦略が功を奏し、売り上げも元に戻った。
国内生産を行っている医療機器メーカーや防災部品関連の会社にも販路を拡大。見事、V字回復を成し遂げた。
しかし08年、米リーマンショックが世界を襲うことに。足元を見渡せば、仕事量が4割も減った。せっかく回復した売り上げがまた下がった。これ以上、仕事量を減らすまいと取引先に何度も足を運び顔をつなげた。
長い3年間だった。粘り強い営業がまたしても実を結び、会社の業績はリーマン前の水準まで戻った。
笠原社長は「顧客の信頼があったからだと思う。常に品質を上げる努力を怠らない姿勢があったからです」と話す。
■工場を移転
同社は09年、相模原市が進める企業誘致条例「さがみはら産業集積促進方策(STEP50)」により、現在の地に移転した。
町田にあった旧工場は、築40年とかなり老朽化していた。加えて、近隣が第1種住居地域に指定されており、工場の改築もままならなかったという。
「相模原からの企業誘致があったのも大きな理由ですが、その当時、町田から通っている従業員がほとんどだったので、旧工場から近いここに決めました」(笠原社長)。 町田から相模原に来てまだ4年。
地域に根ざした企業を目指そうと、地元の人材を雇用している。
現在は、業員約40人のうち約半数が相模原在住の人を採用しているという。
「あそこだったら任せて安心」それが、同社の合言葉だ。高品質の製品を目指す笠原特殊印刷。
その原動力は、とにかく「顧客のために」という一言にあるという。笠原社長のあくなき挑戦は、第2の創業の地、相模原でまだ始まったばかりだ。(2013年11月1日号掲載)