住宅のクロス工事を手掛けるタバタ室内装飾(相模原市中央区田名)。県内の同業者のなかでも指折りの規模を誇る優良企業でもある。そんな同社を率いるのが、創業者でもある田畑佐稔社長(46)だ。クロス貼り職人として、まだ〝半人前″だったにもかかわらず、勢いに任せて20歳で独立。莫大な借金を抱えながらも必死で働いた。「神様は必ずいる」と自分に言い聞かせ、苦難と戦った。決して腐ることのない、前向きな姿勢がやがてチャンスを生んだ。(船木 正尋)
■転職繰り返す
タバタ室内装飾は、繁忙期には1週間で約40棟の工事をこなす。自社ビルを持ち、年商4億5000万円を稼ぐ。
そんな今でも、田畑社長は現場に入ることもある。経営者として多忙な日々を過ごすなかでも、クロス貼り職人として腕は、決して衰えていない。田畑社長は八王子に生まれた。その後、父の出身地である相模原へと転居した。
小中高校時代は、野球に熱中した。高校時代は守備の花形であるショートを守っていたという。 とはいえ、卒業後は、職を転々とした。
自分の果たすべき夢は何なのか。自問自答の毎日だったという。トラック運転手、倉庫管理業…。自分の居場所を探してい。
4社目の生コン会社では、給料も高く何の不満もなかった。それでも転職を決意した。
田畑社長は振り返る。「誰でもできる仕事ではだめだと思いました。手に職を付けたいと強く思いました」。
その直後、現在のクロス工事の仕事に出会うことになる。転職先は、町田のクロス工事会社だった。
「これだと思いましたね。壁一面、奇麗に貼られていくクロスを見て感動しました。運命の出会いでした」と田畑社長。19歳のときだった。
■独立の道歩む
仕事にも慣れてきた20歳のころ、妻・九子さん(現在は取締役)と結婚。お腹の中には子どもを身ごもっていた。これから家族を養っていくには、このままの給料では厳しい。
さて、どうするか―。田畑社長は独立を決意する。稼ぐも稼がないも実力次第。そんな世界に足を踏み入れた。
「『やるしかない』の一言。家族を路頭に迷わせるわけにはいきませんから。そして『夢は必ず叶うもの』と信じてがむしゃらに働きましたね」
6畳一間の自宅寝室にパソコン1台を置いてのスタートだった。
当時は、同業者から仕事をもらって生計を立てた。
といっても、クロス貼り職人としてのキャリアはわずか1年足らず。天井や壁のクロスを貼るのもままならなかったという。
分からないことは、現場で出会った職人や現場監督らに何でも聞いた。納得するまで昼夜を問わず仕事をした。
田畑社長のひたむきな姿を見たある工務店の社長が現場監督に「あいつ頑張っているから、直接仕事をやらせてやれよ」と言ってくれた。それからはコンスタントに仕事が入るようになっていった。
「本当にうれしかったです。その時の恩は一生忘れないですね」
ところが、気が付くと借金は1000万になっていた。まだ若い。遊びたい時期でもある。無類のクルマ好きだった田畑社長は、ローンが終わる前に何台も購入していた。
「その時は借金を返すために働いていましたね。しかしそれをも仕事のモチベーションにしていました。2年で完済しました」と苦笑い浮かべながら当時の心境を語る。
■脱下請け進め
やがて日本経済はバブルが崩壊。クロス工事の施工業者にとっても、経営環境は一変した。
そんななか、田畑社長は会社の事業構造を刷新 しようと決意する。これまで〝同業者の下請け″として受注していた多くの仕事をストップさせ、工務店と直接契約を結ぶことにした。
「『脱下請けを図らないといけない』と思いました。市内外の工務店を100件くらい飛び込み営業しました。今、思えばきつかったですね。でも当時は仕事を得るために夢中でしたね」
1年間は地獄だった。売り上げが前年比の半分まで割り込んだ。それでも、自分が選択した道は間違っていないと、自らを奮い立たせた。「神様はきっといるはずだ」。地元の不動産屋の催し物があれば、すぐに足を運んだ。
そこで知り合った業者のところには、翌日には訪問し、営業をかけた。こうした真摯な営業が実を結んでいった。
■まだ夢の途中
そして現在―。タバタ室内装飾は、創業26年を迎える。今では社員20人、外注のクロス貼り職人も常時20人は抱える規模になった。
田畑社長は言う。「これから先、日本経済がどうなるかわからない。新築の住宅やマンションが減るかもしれない。私が引退しても、今の若い社員が家や車を買えるような会社にしていくのが夢。まだ夢の途中ですよ」と。
かつて20歳で無我夢中で独立した田畑社長。それからの道は決して平たんではなかった。それでも諦めない、プラス思考を持ち続けたからこそ今がある。夢の実現に向けて、これからも田畑社長は、走り続ける。(2013年12月10日号掲載)