相模原市中央区上溝に会社を構える鉄筋工事の秋森鉄筋。マンホール1個から2000トンクラスの大きな仕事まで、幅広くこなす。同社を率いるのは創業者の秋森三男社長(61)。21歳で入社した鉄筋工の会社では、社長が急死。秋森社長がリーダーとして、仲間をまとめた。その後、全国各地に修業の旅へ。どんなに厳しい現場でも、弱音を吐かず現場に立ち続けた。独立して3年間は利益がなかった。それでも「やるしない」と覚悟を決めた。秋森社長の人生に〝後退″の二文字はない。不可能を可能にする仕事ぶりを支えているのは、誇り高き職人魂である。(船木 正尋)
■修業の旅へ
秋森鉄筋は、年間1万8000トン規模の仕事を請け負う。現在、従業員30人を抱える企業に成長した。
秋森社長は茨城・常総市の出身。大自然に恵まれた土地でのびのびと育った。農業高校に通い、北海道で、牧場経営を夢見ていたという。
高校卒業後、友人に誘われ、東京・小岩で日雇の土木作業員として働いた。それが上京のきっかけだ。21歳のときには仲間の紹介で蒲田の鉄筋工事会社に入社した。
秋森社長は「日雇いの土作業員では、将来が見えないということもあり、転職を決意しました」と、当時を振り返る。
まもなく転機が訪れる。入社した会社の社長が、脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。
当時、相模原市南区の北里大学病院の工事を行っていた矢先の出来事だった。現場や会社を指揮するリーダーもいない。混乱の中で、秋森社長は立ち上がった。仲間を取りまとめ、なんとか工事を完了させた。
リーダーとして悪戦苦闘するなか、技術を磨き、実力を高めたいと思った。
結局、このことを契機に、北は北海道、南は九州まで、約2年間、修業の旅に出ることにした。
「全国各地で、鉄筋加工の工法が違っていて本当に大変でした。それでも、こうした修業が、今の自分を育ててくれたと言えます」
■苦しい独立
修行を終えた1976年。ついに独立に踏み切った。従業員は4人。秋森社長25歳のときだった。
最初に手掛けたのは藤沢・長後にある電話局の鉄筋工事だった。
施工が難しいうえに、検査も厳しいため、同業他社は敬遠していた。
そんななか、秋森社長は、あえて挑んだ。
「当時は独立したばかりなので、難しい施工をして名あげる必要がりました。従業員も少ないなか、何とか工事を完遂できました。作業中は『本当にやるしかない』という気持ちだけでした」と心境を語った。
その後も、学校や郵便局など公共施設の施工を次々と受注。
それでも、採算度外視の工事もあったため、3年間は利益が出なかった。
そんな苦しいなか、手を差し伸べてくれたのが、秋森社長の母だった。
実家・茨城の古木間から会社がある長後まで、従業員の食事の世話をするために駆けつけてくれたのだ。秋森社長は言う。
「本当にあのときは助かりました。宿舎に寝泊まりしてくれて、美味しいごはんを作ってくれましたね。今でも頭があがりませんよ」と。
難しい施工を次々とこなし、秋森鉄筋の評判も上がってきた。やがて仕事も軌道に乗り、県内の高校20校の鉄筋工事も手掛けるまでになっていった。
■相模原の地
企業規模の拡大に伴い相模原市内に会社を構えたのは1987年のことだ。
今では3200平方㍍の敷地に太物鉄筋と細物鉄筋の2つの加工ラインを持つ。
従業30人のほか、外注の専属組立班50人も所属している。
秋森社長は、どんなに小さい現場でも、必ず最初と最後は現場を訪れるという。
「鉄筋工事は、非常にリスクが高い。柱一本でも足りなければ、建物を壊すことになります。施工者や設計事務所にも迷惑がかかります。だから必ず現場に足を運ぶことにしています」と秋森社長。一つ一つ違う現場をすべて管理することは、一人ではできない。
秋森社長は「『人任せにはせず。あらゆる業務を見なおせ』と、自分にも従業員にも、常々言い聞かせています」と強調している。
■次の世代へ
同社では2年後、事業拡大のため新工場を建設する計画を描く。
相模原・当麻地区の3300平方㍍の敷地に屋根付きの加工場を設ける。ラインも大物2つと細物1つの合計3ラインを設けるという。後継者も決まった。
秋森社長は「長男が継ぐことになり、新たな工場で、自分が培ってきた技能や技術、そして商売のリスクの怖さを教え込んでいきたい」と期待している。
創業から36年。雨の日も風の日も、現場に立ち続けた秋森社長。
誰もがやらない難しい施工を鉄のような強い意志で、やり遂げた。
簡単に曲がることがない、その意志は、未来を見据えまっすぐに伸びている。次の世代につなげるために―。(2014年1月1日号掲載)