今や相模原市内でも有数の水道工事会社に成長した八千代水道(中央区田名)。創業者の関根儀秋社長(74)は、満足できる仕事に出会うまで、迷い続ける日々を過ごした。たまたま見つけた水道工事のアルバイト。つらくても、汗を流し、生活のインフラを支える仕事に「何か」を感じた。そして転職を決意する。一度は相模原を離れることを余儀なくされたが、再び戻って事業を軌道に乗せた。苦労を苦労とは思わない。その前向きな性格が、会社成長の源になっている。 (船木 正尋/2014年2月10日号掲載)
■勤労学生に
昨年で設立40周年を迎えた八千代水道。年商12億円。年間2000件もの工事をこなす。
関根社長は長野出身。熊も出るような大自然に囲まれて育ったという。地元高校を卒業後に上京。大手プレス会社に就職しながら、工学院大学・機械工学部(夜間)に通った。
午前9時から仕事を始め、終わるとその足で大学へ向かった。午後9時まで講義を受けた。学費は自分で払った。会社では、プレス部品の検査治具の図面を引いていたという。
「仕事はそんなに面白くなかったです。学費のために働いていましたね」と関根社長は苦笑いを浮かべながら振り返る。働くことの意義を模索していた。
大学は無事卒業した。会社も続けた。が、どこか悶々(もんもん)とした日々を送っていた。このまま会社にいるべきか。それとも…。25歳で結婚した。会社を辞めようにも辞められない事情もできた。
そんな時、今後の人生を決める出会いが訪れる。
「日曜も仕事をしたいと思い、職安で相模原の水道工事会社のアルバイトを見つけました。久しぶりの肉体労働をしましたが、すごく気持ちがよかった。『これだ』と思いましたね」
会社を辞める決心がついた。自分が進むべき道も開けた気もした。
「この業界でやっていきたい。これなら無我夢中になれる」
すぐさま水道会社に転職した。体を使った仕事が新鮮だった。水を得た魚のようにがむしゃらに働いた。
■独立果たす
水道工事会社で1年間修業を積んだ後、同僚とともに相模原市内で独立した。個人事業だった。
1969年、「いざなぎ景気」の時代。好景気を反映して建築ラッシュも発生。仕事は飛ぶように入った。
独立当初から経済状況の追い風もあり、仕事の受注は順調かと思われた。だが、わずか2カ月後、状況は一変する。元受の水道会社から「今までのように仕事は回せない」と言われたのだ。前の会社から圧力がかかり相模原では仕事ができなくなってしまった。
■新天地求め
関根社長らは仕事の拠点を川崎に移すことにした。すべてゼロからのスタートだった。
「未開の土地で営業をしまくりましたね。多い日で1日30件もの工務店を訪ねました」と関根社長。
地道に、地道に歩き回った。数年かかったが、その成果もあって仕事は軌道に乗りはじめた。
相模原時代、圧力をかけた前の会社との軋轢は、時間とともに消えていた。
そして年、再び相模原へ仕事の主戦場を移した。現在の社屋の隣に50平方㍍の小さな事務所から再出発した。関根社長を含め、従業員は4人に増えていた。
また相模原で仕事ができるようにと、軽自動車で市内の工務店を回った。高度成長期も追い風になり、仕事は徐々に入ってきた。
「とにかく小さな仕事をこつこつとこなしました。顧客のニーズに応えようと多くの努力もしました」
こうした謙虚な営業姿勢が口コミで広がり、評判を呼んだ。
■転機が到来
やがてバブル到来。営業をしなくても仕事が大量にやってきた。同業者たちも好景気で多くの仕事を受注していた。
そんななか、関根社長はそこで勝負に出る。大手ハウスメーカーに営業を仕掛けた。
同業他社ではどこもやっていなかった。そこまで大手にこだわるには理由があった。
社員がある工務店に集金に行ったところ「うちみたいな小さい工務店が工事代金を支払わなくても大丈夫でしょう」と渋られた。
このことをきっかけに大手の仕事をして、安定した経営をしてきたいと思ったという。
「会社は順調なのになぜ大手に営業するのか」。社内から反対の声もあった。それでも「安定した大手と仕事をすれば、必ず将来につながる。動くなら今しかない」と関根社長は説き伏せた。そして現在に至る。
関根社長は言う。「昔の電話帳を開くと多くの同業者の名前を見る。今はその名前はない。あの時、大手に営業をしていなかったら、うちも電話帳から消えていた」と。
関根社長の信念は、安定と継続。厳しい時代を乗り越えてきた知恵だ。水の流れのようにしなやかな心もちと顧客の心をつかむ丁寧な仕事が関根社長の人柄を表している。