清和サービス、〝父の想い〟継ぎ安定経営/「街きれいに」と日々奔走


「ごみ回収は社会貢献」と語る原社長

「ごみ回収は社会貢献」と語る原社長


 相模原で緑のゴミ収集車を見かけたのなら、それは清和サービス(同市中央区宮下)の車といっても過言ではない。一般廃棄物の収集や資源リサイクルを手掛ける同社は1971年の創業。率いるのは2代目の原正弘社長(53)だ。原社長は、学校卒業後にサラリーマンを経て入社。仕事のやり方で父と衝突し、7回もクビを言い渡された。それでも辞めなかったのは、創業者の父・一規氏の背中を追い越すためだった。そしてつかんだ社長の道―。今だから分かる父の想い。その心を継承しながら、現場で汗を流している。(船木 正尋/2014年3月1日号掲載)

■父との勝負

 清和サービスは今年で創業43年目。従業員は派遣も含め60人以上となった。
 経営に忙しい原社長は今でも現場に入ることがある。
 原社長いわく「『ごみ回収』という社会で必要とされている事業は、現場がすべて」。
 相模原市緑区橋本の出身。中学時代は、ハンドボールに夢中になった。もっと深めたいと思い山梨の高校に通い、関東大会まで出場した。
 その後、都内の大学を卒業し、特殊鋼販売会社に入社した。
 「就職説明会で、機関産業に興味を持ちました。製造業の縁の下の力持ちになりたかったんです」と原社長は振り返る。
 入社してからは大変だった。営業マンとして1日数十件の取引先を回った。夜は夜で、報告書をまとめる。家に帰る暇がないので、当時の社長の家に寝泊まりしていた。
 「あの頃は、寝る暇もないくらい忙しかったですね。でも、いろんな人と出会えて、仕事自体は本当には楽しかったですね」
 そんな生活を2年間過ごした後、転機が訪れる。11984年に清和サービスに入社することになった。
 きっかけは、創業社である父・一規氏とのけんかだった。
 「父に『そんなに一生懸命働いても俺よりも稼けねぇよ』と言われまして。私も『じゃ~同じ土俵で勝負しょうじゃないか』ってたんかを切って入社しました」
 最初の1年間は辛かった。当時は、一般ごみの回収のほかに、側溝の清掃がメーンだった。
 ふたがない側溝には、ふたを搬送して閉めるのも作業の一つだった。1個6キロもあるふたを1日に何百個も運んだ。
 原社長は「あの頃は体が悲鳴を上げていましたね。機械も使わず手作業で、積んでいましたから。高校時代にハンドボールでき鍛えたこともあり体力には自信があったんですが…」と話す。

■7回クビに

 その翌年、会社は資源回収事業に乗り出した。ビンや缶、新聞紙や段ボールなどの回収を始めた。
 その頃、原社長と先代の社長である一規氏とは仕事のことで衝突が絶えなかった。
 仕事の合理化を図る父と、体力勝負で挑む息子―。
 「その当時は、若かったので、とにかく体を使って早く仕事を終わらせたかったんです。でも、父は、いろいろ考えて仕事をしていました」
 一規氏は、仕事の効率化を図ろうとベルトコンベアを改造したりと、試行錯誤を繰り返していた。
 そんな父の姿を見て原社長は、「『そんなことより、早く仕事しろよ』なんて父に反抗して、通算7回もクビになりました。でも、今思うと、父の仕事のやり方は正しかったですね」と苦笑いを浮かべる原社長。
 それでも原社長が仕事を続けたのは、ひたむきに働く父の姿を見ていたからだ。「文句も言わず父はよく働いていました。そんな父の姿を見て手伝いたいと思いました。だから『お前はクビだ』と言われても何気なく次の日には出社していましたね」
 01年の創業30周年を機に、社長に就任する。入社した当時は、10人しかいなかった従業員が約60人にもなった。
 「ごみ回収はやりがいのある仕事。社会にとって必要不可欠な仕事だと思っています」(原社長)と話す。
 直接お客さんに「ありがとう」と言われることはあまりない。しかし、それでもごみを回収するのは、きれいな街作りに貢献しているという自負があるからだ。原社長は
 「毎日収集することで皆さんが出すゴミ置場をきれいに保つ事ができる。地域貢献ができているのではないかと思っています」と語る。

■熱い思いで

 そんな原社長は、今でも現場で汗を流す。
 「仕事の上で何が大変なのか。どこでカラスが散らしているのかなどを知るために現場に出ています。そして、この仕事をして思うのは、何軒かの人たちにとっては、一つしかないごみ置き場。だからこそにきれいにしてあげたい」と熱く語る。
 雨が降っても風吹いても誰かがやらなければならない仕事がある。その一つがごみの回収。
 リサイクル社会と言われる現代。ごみを回収し、新たな資源に変えていく。原社長は、今日も街をきれいにするために奔走する。それは、よりよい街をつくるために。

…続きはご購読の上、紙面でどうぞ。