プロサッカー選手になろうと夢を見た―。相模原からある青年がブラジルへ武者修業に出た。かつての青年は、現在もサッカー選手として活躍している。Jリーグを目指すブレッサ相模原で選手兼コーチを務めている安彦考真さん(36)だ。夢の舞台まであと一歩だった。転機になった故障、そして、一度は引退も。それでも辞めなかったのは、「サッカーを通じて域貢献をしたい」という想いだった。それを若い世代にも伝えようと、安彦さんは新たな目標を胸に今でもピッチでボールを追い続けている。 (船木 正尋/2014年6月20日号掲載)
■挫折をバネに
相模原市南区新磯出身。安彦さんはサッカーを始めたきっかけにについて「漫画『キャプテン翼』が流行っていたこともあり、サッカーをすることも決めました」と話す。小学1年の時、友人と一緒に近所のサッカー少年団に入った
「時間を忘れてサッカーに熱中していました。帰るのが遅くなって親に怒られていましたね」と苦笑いを浮かべる安彦さん。
中学に入るといっそう練習に身を入れた。しかし、チームでは5、6番目の選手。チームメイトが市の選抜選手に選ばれるなか、安彦さんは選ばれることはなかった。守備の要、そしてキャプテンとしてチームを支えてきた。こうしたかいもあり、中学3年の夏には相模原市で優勝し、県大会に出場することができた。
「この時は、楽しさから勝利の喜びを知った瞬間でした。強豪校へ進学してサッカーをもっと極めようと思っていた時期です」
だが、現実は厳しかった。スポーツ推薦で、市内の強豪校への進学が決まりかけていた。しかし、成績が足りないということで入学がふいになったのだ。
そして、安彦さんにとって苦しい時代が始まる。サッカーでは無名の県立新磯高校(現・県立青陵高校)に入学することに。「当時は、不良学生も多かった。かくゆうサッカー部も、バットを持って練習試合に行く部員もいた」と安彦さん。
「推薦がだめになり、新磯高校サッカー部に入部した時は、がく然としました」
それでも安彦さんは諦めない。陸上部の顧問の進めもあり、1年の冬から2年の春まではサッカー部を離れ、一時的に陸上部に入部した。徹底的に走りを鍛え、50メートル走が、7秒から6秒に縮まった。
安彦さんは「走りを鍛えたおかげで、今でも一瞬のスピードは、若手にも負けませんよ」と笑う。
■海外に挑戦へ
そして、一大決心をする。中学校から抱いていたブラジルへのサッカー留学を決意する。高校2年の冬だった。
まずは渡航資金を貯めようと、新聞配達を始めた。眠い目をこすりながら、午前3時から6時まで働いた。
そして、渡航費用30万を手に入れた。約半年の努力のたまものだ。そのお金を握り締め、いざブラジルへ。
高校生の安彦さんは17歳にも関わらず、サンジョゼというユースチーム(18~20歳)に所属することになった。
だが、ポルトガル語は話せない。練習に顔を出すも差別用語を浴びせられた。「ブラジルのサッカー界は実力がすべて。認められるまでは、大変でしたよ」と当時を振り返る。
そんな安彦さんは、がむしゃらにボールを追った。全体練習が終わった後も居残り練習で、汗を流した。そうした努力の甲斐もあり、左サイドバックのレギュラーを獲得した。
献身的な守備と果敢なオーバーラップが監督の目に留まったのだ。1カ月滞在の予定が、2カ延長になった。
高校卒後も再びプロの夢を追ってブラジルに。 実力が認められ、グレミオ・マリンガFCでプロ契約を勝ち取った。だが、サッカーの神様は彼に試練を与える。リーグ戦が始まる直前の練習試合で、左ひざの前十字じん帯を断裂。日本への帰国を余儀なくされた。
「本当に悔しかったですね。あと少しというところでしたから」と打ち明ける。
■己の力を試す
その後、元ブラジル表のジーコの兄・エドゥが運営するエドゥサッカーセンターで通訳兼コーチ兼選手として活躍。天皇杯に出場するも引退を決意する。25歳の時だった。
「なぜか分からないんですが、燃え尽きてしまったんです」と。それからJ1大宮アルティージャーの通訳を務め後、元日本代表の北澤豪さんのサッカースクール手伝うことに。
少年サッカーのコーチを務めながら、大会の企画や運営にも明け暮れた。だが、「もっと自分から発信できることがあるのでは」という言葉が頭をよぎった。そして、新たな道を決意する。
■新たな道模索
北澤さんの元を離れた。サッカーを通じた地域活性化を促したいと、スポーツディレクターとして独自の道を歩むことにした。まずは、Jリーグを目指すブレッサ相模原で、十数年ぶりに現役復帰をすることにした。若い選手にまずはプロとしての見本を示すために。そのほか、麻布大学付属高校サッカー部コーチや、サッカースクールの指導者として、忙しい日々を送っている。
「サッカーの楽しさを多くの人々に伝えたい」その想いが安彦さんの原動力だ。プロとしての道は絶たれたが、サッカーを通じて熱き想いを伝える伝道者としての新たな挑戦が始まった。