相模原市南区の閑静な住宅街に本社を構える出版社がある。保育や幼児教育関連の専門書などを出版する、「ななみ書房」(同区御園)だ。社長の長渡晃さん(60)は、書籍の企画から営業までを1人で取り仕切っている。自宅兼オフィスの壁には1枚の写真が飾られている。写っている幼い少女の名前は「ななみ」。会社と同じ名を持つ女の子は今、天国にいる。出版業界が斜陽だと叫ばれる中、大きな夢を抱いた小さな出版社が本をつくり続けている。(芹澤 康成/2014年9月10日号掲載)
■勉強より読書
長渡社長は1954年、東京都世田谷区に生まれた。父親は大手新聞社の記者で、妹と2人兄妹だった。渋谷区や日野市と東京都内で転居を繰り返した後は、高校1年で相模原市南区鵜野森へ引っ越してきた。
相模原から東京都内の三鷹高校へ通学していた。勉強よりもアルバイトに明け暮れた。引越しや新幹線の車内清掃などで貯めた金銭は、趣味の写真に注ぎ込んでいた。
趣味の読書も高校時代に熱中した。主にエッセイなど、さまざまなジャンルを読み漁った。
大学は、静岡県静岡市の東海大海洋学部へ進学。就職難という時代背景だったため、手に職を付けたいと望んだ。
海洋建設工学科では、プラント建設や資源開発を学んだ。当時は、石油資源の枯渇などエネルギー問題が取り沙汰されていた。「伸びる業界だろうと思っていた。浅知恵だった」と苦笑した。
■出版の人生へ
就職先は、大学卒業から5年後に入社した、藤沢市内の印刷会社。最初はちらし広告などを制作する商業印刷を行う中で、印刷に関わる工程に携わった。営業では見積書の作成、原紙の購買なども経験した。
4年半後、親族が経営する出版社を手伝うため転職した。同社は食品・栄養と図書館学の大学向けテキストを制作・販売していた。社員は少数で、編集や営業などすべての仕事に携わった。
同社に入社した際、今後の人生を「出版」に捧げていくと予感した。印刷や本づくりについて改めて勉強したほか、自社で扱う分野について知識を身に付けた。
大学向けのテキストは、毎年1万部以上売れた。北海道から九州まで全国の大学で採用された。
主力だった食品・栄養や図書館学の売り上げが伸び悩んだ。新規事業を開拓するため保育と幼児教育を任されると、勉強のため専門書を読んだ。
カラーや挿絵を使った見やすいテキストを提案したが、利益を優先する社長に採用されなかった。低コストを優先し、低コストを優先した本づくりに失望した。
■絶望から起業
より良い出版物を世に出そうと思っても、会社の方針に従わなければならないサラリーマンとしての自分との葛藤。愛娘の早世。絶望の淵から救い出したのは、将来の分らない新しい会社に作品を提供してくれた著者たちだった。
「出版不況と言われる時代に、無謀にも出版社を立ち上げた」と自笑する。しかし「意志と戦略さえあれば、まったくだめというわけでもない」と目つきは真剣だ。
相模原市内の自宅で「ななみ書房」は相模原市内の自宅で誕生させた。設立日は2005(平成17)年7月7日。「7が3つで〝ななみ〟にこだわった」と長渡社長は話す。
社名の由来は、4歳でこの世を去った愛娘・ななみさん。ロゴマークのデザインも壁に飾られた写真をシルエットにしたもの。「少女の指さす未来にはその出会いへの夢がある」とメッセージが込められている。
■良質な書籍を
前の会社では受け入れられなかった案を、自社で出版する同じ本に取り入れた。2色刷りや専門家による装丁を採用した結果、売り上げが飛躍的に向上したという。
「費用を惜しんで内容のケアを怠ると、たちまち売れなくなる」と出版への情熱を話した。
「最終的には一般書を発行したい」という長渡社長は今後5年間で、後継者の発掘と育成、創業当時に発行した書籍の改訂、保育や幼児教育への原点回帰―で経営基盤を整備したいという。
同社は今年7月、『わ・た・し とびおりちゃいました』(高橋和美著)を発行。自らの意思であらゆる依存症を克服した著者の自伝をまとめた。
社長の夢は一歩ずつ、だが着実に歩みを進めている。