相模福祉村、福祉で地域に恩返し/人はひとりで生きられない


無料学習塾を計画する赤間会長

無料学習塾を計画する赤間会長


 人はひとりで生きられない―。相模福祉村(相模原市中央区田名)の赤間一之代表が、自伝のタイトルに付けた言葉だ。「多くの人に助けられ、社会に支えられてきた」と振り返る。大手新聞社の新人記者として赴任した相模原。縁もゆかりもない土地だった。しかし、そこで出会った人びととの出会いが、その後の人生を支えてくれたと話す。今年78歳を迎えても、赤間さんの地域への恩返しは続く。(芹澤 康成/2014年11月10日号掲載)

■暗い青春時代

 1936年、宮城県仙台市で4人兄弟の長男として生まれた。小学生の頃は、戦中戦後の混乱期の真っ只中だったこともあり、転校を5回繰り返したという。

 赤間さんは、自身の青春時代を〝暗かった〟と表現する。中学生の時に「肺結核」にかかり、以降、高校3年までの3年半を病床で過ごした。

 36人部屋の入院生活は、赤間さんの現在に大きな影響を与えている。病院で食べ残された食物を、仙台駅の地下道で生活する人に届け続けた。当時の社会情勢は、さまざまなことを考えさせた。

 主治医が退院する少年へ贈った言葉は「無理すると、人生50年ですよ」だった。だが、その後は忠告を忘れるほど病気らしい病気を患ったことがなく、「運が向いていた」と話す。

 病床に自作の鉱石ラジオを持ち込み、消灯時間後でもNHKの高校通信講座を聞いて学習を積んだ。そのかいあって、56年、文部省(当時)の大学入学資格検定試験に合格できた。

■相模原へ赴任

 中央大学法学部を卒業後、読売新聞社に記者として入社。「64年(昭和39年)7月13日」を忘れないと赤間さんは言う。

 横浜支局相模原通信部に赴任した日で、とても暑い日だった。愛用のオートバイに跨り、当時の中心市街地だった上溝商店街のアーケードをくぐった。

 「50年が経ったが、あの時は相模原に骨を埋めるとは想像もしなかった」と振り返った。

 同年は、東京オリンピックが開催された年。赤間さんは相模湖で行われたカヌー競技の担当記者だった。意欲あふれる若手記者は、選手村に飛び込んでいった。

 赴任当時の家は上溝にあった。老朽化が激しく雨漏りのする建物で、居心地のいいものではなかったという。

 適当な住宅を探していたところ、市議から家を借りることになった。後に農業協同組合の組合長となる金子敏氏との出会いだった。大家と借家人の関係は、赤間さんの大きな人的資産となる。

 河津勝元市長との出会いは、市の助役と新聞記者という関係だった。河津氏は、当時の読売新聞が全社をあげて取り組んでいた「公明選挙」推進運動に関心を寄せていた。

 河津氏が市長に就任すると、意見を求められることが多くなった。
 
■障害者支援へ

 相模原を一時期離れなければならない時が来る。河津氏2期目の市長選から間もなくの〝転勤命令〟だった。同社を退職して、河津氏の選挙を3期12年間手伝うことになった。

 障害を持った子供たち約35人とその親が、世話好きな赤間さんを頼って集まるようになった。就労援助のため、軽作業の支援事業を立ち上げ、当初はたまごの販売など、簡単な作業から開始した。
 来る者を拒まず皆を受け入れたため、プレハブの事務所に全員が同居することになった。「仲間」たちは増え続けた。

 自立支援施設「たんぽぽの家」を立ち上げたのは73年秋だった。市長だった河津氏の選挙事務所を借りてのスタートだった。

 自己資金は、わずかな退職金だけだった。用地は市から借りたが、国からの資金を借り入れるにあたって、保証人が課題となった。家主の金子氏が親類を紹介してくれ、見ず知らずの赤間さんに家を担保にしてくれた。

 当時、ミミズがある種のブームになり、養殖を事業としていた。餌にするために、西門の印章店で譲り受けた印鑑くずを台車で運んだ。「障害者を見せ物にしている」と世間から白い目で見られたという。

 相模福祉村を創設したのは83年。地域の要望に応じて、介護老人福祉施設や知的障害者施設など事業を拡大していった。

■無料の学習塾

 そして今年11月、相模クラーク学園を開所した。介護などの支援が必要な障害者を対象に、介護や運動プログラム、生産活動などの機会を提供。また、施設の一部を地域住民の文化活動などに解放している。

 赤間さんは、緑区・中央区・南区の3カ所で「無料学習塾」を開設したいという。家庭の所得に関わらず、小・中学生であれば誰でも受け入れる。

 指導スタッフは、学校教員の退職者や民間企業の経営者・OBなどが担当する方針で、科目も国語・英語・数学など基礎5科目に対応する。主婦なども招き入れ、勉強だけではなく軽食も提供する計画だ。

 赤間さんは「相模福祉村は地域に助けられて、ここまで育つことができた。今後は地域にお返しさせてほしい」と話していた。

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