たけのうち幼稚園(相模原市中央区東淵野辺)などを運営する学校法人小磯学園の小磯信一理事長は、少林寺拳法の道場を構え、教育方針にもその教えを採用している。県少林寺拳法連盟の副理事長や日本大学少林寺拳法部OB会の会長を務め、後進のみならず優れた指導者の育成にも成果を挙げている。「弱い自分を鍛えたかった」とはじめた武術は、健全に生きる強い人間を育成し続けている。(芹澤 康成/2014年12月10日号掲載)
■拳法を始める
1952年、東淵野辺で2男1女の長男として生まれた。当時の家業は、乳牛を飼い、乳を売って生計を立てる酪農を営んでいた。
子供の頃は「いたずら坊主」だったと自笑する。野球が始まればボールとバットを持って集まる。映画を見れば、桑の木の枝を削って作った木刀を振り回し、チャンバラをやった。
中学時代は、軟式(ソフト)テニス部に所属していた。上級生がつくったばかりでコートもなく、土を均して整地することから始まった。
当時の趣味、自転車をはじめたのもこの頃だったという。流行したサイクリング車に跨っては、日帰りで江ノ島までペダルを漕いだ。「下田や伊豆大島へ行く時はテントを張って野宿も経験した」と小磯理事長。
高校は横浜市内の日本大学高校に入学。1年目でテニス部に入ったが、すぐに退部。「相模原綜合卸売市場の精肉店などでアルバイトに明け暮れた」と振り返る。
大学は日本大学経済学部へ進学。少林寺拳法をはじめたのもこの頃だった。1年目は藤沢キャンパスへ通い、講義が終わってから東京都内へ練習に通った。「弱い自分を鍛えたかった」と話す。
■幼稚園の運営
大学卒業後、小磯理事長の父・洸さんが小磯学園を1974年に設立した。同年、現地で「たけのうち幼稚園」を開園した。
1975年、同園の後を継ぐために就職し、バスの運転手や事務などを務めた。「女性の職場の難しさに苦労した。年長者の上に立って仕事をすることも大変だった」と苦笑する。
30歳になった頃、相模原青年会議所(JC)に入会。当時の役員や先輩を思い出し「人付き合いの方法など、いろいろな社会勉強をさせてもらった」という。
少林寺拳法の道場を開いたのは、幼稚園に就職して2~3年目のことだった。未就学児から中学生まで100人を1人で指導。最高齢では60代の入門者もいたそうだ。
■豊な人格形成
現在は、県少林寺連盟の副理事長を務める小磯理事長は、運営する幼稚園の教育方針にも少林寺拳法の教えを取り入れている。将来の社会生活に適応させるため、心身ともに健全で豊かな人格の形成が狙いだ。
少林寺拳法は、自身の可能性を信じて高め続けられる者、周囲の人々と協力して行動できる人を育てるという。
幼稚園は、3~5歳の異なる年齢の集団であり、年長者が年少者を統率する力が子供でも必要だという。「集団の中で一人ひとりを尊重する子供を育てたかった」と話す。
同園の特色の一つは、こま、竹馬、けん玉などの昔の遊びを取り入れていること。「人と遊ぶことの良さを知ることで積極的に人と関わろうとする態度や、根気強く取り組もうとする意欲を育む」という。
■姉妹園を開園
12年、大磯町の旧・町立小磯幼稚園の経営を引き継ぎ、旧園をそのまま使った「小磯学園こいそ幼稚園」(大磯町西小磯)として新たに開園した。
用地は同町から借り受け、建物は町からの寄附で同園の所有になった。教員はたけのうちから異動した4人と新採用教員の総勢8人体制でスタートし、全園児80人を預かった。
民営化にあたって小磯理事長は、まず制服とかばんを作り、同町で初めて通園バスの運行を開始。また、半日保育を減らして預かり保育も毎日行うなど、年間の保育時間や保護者向けサービスを増やした。
経営を引き継いだ理由について、小磯理事長は「〝小磯〟という名前の縁や経営展開の可能性に加え、相模原のたけのうち幼稚園の園児との交流」と話した。
夏には、年長児の「お泊り会」を海辺のこいそ幼稚園で開催するなど、相模原の園児には海を活かした活動を提供。大磯の園児にはたけのうち幼稚園の迷路もあるユニークな園舎や豊富な遊具 で遊びを体験させた。
「相模原や大磯では、普通に体験できないことがある。遊びを通して感じてもらいたかった」と小磯理事長。
学校法人が複数の幼稚園を経営する場合、同一地域での展開が一般的だが、地理的にも離れた場所の姉妹園を活かした教育は、同学園の新たな魅力となった。
「振り返ると、幼児教育に関われてよかった。旧来の保育を壊しながら、新しい保育をつくり上げたい」と小磯理事長は語っていた。