地元・上溝で開業して約20年の不動産業ムラタカンパニー(相模原市中央区上溝)。創業者の村田崇社長は「勝ちに行くのではなく、負けない気持ちを持つことが大切だ」と話す。「敗北」という辛酸を二度と舐めまいと誓ったのは、甲子園出場のかかった県大会決勝のグラウンド。最大のピンチと例えるリーマンショックでは、元銀行マンとしてのノウハウが資金繰りを助けた。母校の野球部OBを率い、現役時代に劣らない情熱を胸に「マスターズ甲子園」のバッターボックスに立つ。(芹澤 康成/2015年1月10日号掲載)
■負けない精神
村田社長は1952年、相模原市中央区上溝で畜産業を営む一家に生まれた。2男1女の長男は、横山の山野を駆け回って育った。
野球をはじめたのは中学生の時だった。有能な選手が揃う中、ポジションはキャッチャー。県大会が最高峰だった当時、各地区大会を通過して2、3年と続けて出場できた。「当時は勉強や恋愛よりも野球に熱中する硬派な人間だった」と振り返る。
高校進学は野球の強豪校を志望し、横浜第一商業高校(現・横浜商科大学高校)へ入学。3番バッターの座を争って練習に励んでいた。
春の選抜高校野球大会につながる秋の県大会では、準決勝で敗退。続く夏の全国高校野球選手権大会出場をかけた県大会では、決勝で惜敗という結果だった。
勝者はメダルをもらい、胴上げをして喜び合えるが、準優勝しても当時はメダルの一つでさえもらえなかった。ベンチの前で、ただうなだれることしかできなかった。
決勝戦で負けた経験は、村田社長の人生の教訓となっている。「1回戦で負けても、決勝戦で負けても、負けは負け。負ければ残るものは何もないと学んだ」と強調する。
ポリシーの一つに「きれいな気持ちで、きれいな金銭を使うこと」を挙げている。「人間は勝ちにいくと汚くなる」と考え、「俺は負けない」という強い気持ちを大切にしているという。
野球への熱意は誰にも負けていなかった。明治学院大学社会学部に進学し、家業の畜産を手伝いながら野球を続けた。2年時にはレギュラーの座を獲得し、ポジションも内野手に決定した。
■金融のノウハウ
70年に大学卒業した後は八千代信用金庫(現・八千代銀行)に就職し、営業として預金開拓に従事。バイクにまたがって、淵野辺近辺の個人や企業を巡った。
産まれ育った上溝地域に支店が開設されることになり、「上溝支店」の準備員として配属された。融資担当の係長となり、地元経済の発展を考えながら仕事をするようになった。
36歳になった村田社長は、14年間の過去を振り返った。それは充実したものだったが、「あと14年で50歳になってしまう。サラリーマンで終わりたくない」と考えるようになっていた。
東京都世田谷区の祖師谷支店に支店長代理で転勤。1年余りで後任へ融資業務の引き継ぎを済ますと、1990年に退職。在職中から家業として営んでいた梱包業を本格化させた。
事業内容は、ソニーロジスティクスや住友3M(スリーエム)などの製品を梱包すること。約10人のパート従業員からのスタートだった。
■運転席で営業
1992年5月に不動産業を開業させた。営業活動は梱包業の荷受・納品をする合間、トラックの運転席で行った。
取り扱い物件は、主に上溝地域の地主から預かった土地や住宅、倉庫など。銀行員時代からの取り引き先も顧客になってくれ、地域に根ざして仕事をしてきた銀行マンの信頼性が生かされた。
「サブプライムローン問題が最も大きなピンチだった」。従業員が一致団結して断行したコストカットは、銀行マン時代で培った資金繰りのノウハウと相まって、困難を乗り切る大きな力となった。
■念願の甲子園へ
村田社長は、母校・横浜商科大学高校(旧横浜第一商業高校)野球部OBでつくったチームに所属し、現在でも甲子園への憧れは忘れていない。
2014年には、元高校球児による全国大会「マスターズ甲子園」に助監督として参戦。母校のOBたちを率い、44年越しの念願をかなえることができた。
結果は、4対2で同校OBチームが小倉東高校OBチームに勝利。村田社長も1巡目で5番指名打者として打席入り。今までの思いのすべてを込めて、バッドをフルスイングしたという。
近年、子供の遊ぶ場所が減少していることに危機感を持つ村田社長は、市内に未就学児から児童を預かる「放課後児童クラブ」の開設を進めている。当初は10~20人程度を定員とし、100~150人まで拡大する方針。英語などの習い事もサービスとして提供する考えだ。
また、「東京近郊のゴルフ場を買い取り、高齢者と子供が趣味や遊びを通して交流できる施設をつくりたい」と話す。半分のコースをサッカーグラウンドや野球場に作り変えるほか、宿泊できるクラブハウスも整備する。高齢者には畑を耕してもらい、老若男女が集える施設を構想しているという。
「子供の教育は、将来の日本にとって重要な資産となる。情緒豊かな子供が育つ環境を提供したい」と抱負を話している。村田社長の夢は尽きない。