働くことに本気で打ち込む―。臨床検査や健康診断事業などを手掛けるメディカルラボ(相模原市緑区西橋本)の創業者である佐々木文雄社長は幼い頃、愚直に、そして真面目に働く「父の背中」を見て働くことのすべてを学んだ。仲間との共同経営に悩んだ末、人生の師と仰ぐ稲森和夫氏との出会いで導き出した答えは、まさに仕事を好きになることだった。
(芹澤 康成/2015年2月1日号掲載)
■父の背に学ぶ
佐々木社長は、1942年、青森県十和田市に4兄弟の長男として生まれた。建築大工だった父親の「愚直に真面目に働く背中」を見て、働くとはどういうことかを学んだという。
子供の頃は、サッカーや野球などスポーツ好きだったが、家庭の経済状況を考慮して部活に所属しなかった。駅伝やリレーの大会が近くなると、選抜選手として強化練習に駆り出されたという。
三本木高校を卒業し、十和田市立中央病院に看護助手として勤務。東北大学や弘前大学出身の医師から目をかけられた。「これからは技術を持たなければだめだ」という医師の勧めもあって、同病院を3年で退職した。
64年に貯金と退職金を合わせて20万円を持って上京。東京都港区の北里衛生科学専門学院(現・北里大学)に入学。早朝と夕方は働き、昼は勉学に勤しんだ。
同学院には、医学者・細菌学者で創始者の北里柴三郎から直接指導を受けた教授陣もまだ在籍しており、授業に迫力があった。2年間学び、北里大学付属臨床検査部へ入り臨床検査のほか、実習講師および助手として4年間務めた。
■3社起し独立
そして70年、人生を変える転機が舞い込んできた。臨床検査の会社を経営する人がいないから、やってみないかという話だった。「人間的に信用してもらえたから、話をもらえたのだろう」と佐々木社長。
最初は資金もなく自分一人では重責と感じたため、仲間3人との共同経営で日本臨床研究所を引き継ぎ独立した。儲かれば儲かったで、赤字になれば赤字になったで、自分の考えを押し通せない共同経営の難しさに直面した。
これまでそれぞれの検査技師を置き行っていた臨床検査は、効率が悪く、病院経営の足を引っ張るケースが多かった。臨床検査を専門に行う会社が生まれつつある時代でもあった。
88年に完全独立し、自宅で現在のメディカルラボを設立。また、同社で使う資材を仕入れるための卸会社「サンコウ商事」と、メディカルラボと同じ臨床検査を事業とする「エヌシーエル」も立ち上げた。
■仕事に打込む
佐々木社長は、京セラの創業者である稲盛和夫氏が主催する盛和塾に入り経営を勉強。「リーダーは正しいことを求める。天はそのような努力、誠実、勤勉さの前には、必ず頭を下げるはず」という稲盛氏の言葉が強く印象に残ったという。
入塾した当初、経営において、稲盛氏が掲げる「自己犠牲が信頼をもたらす」「利他の精神」「世のため人のためなら、すすんで損をしてみる」の実践は難しいと考えた。しかし、例会で稲盛氏本人と会うと、強力な気迫を感じ何かがこみ上げてくるのを感じた。
「まずは〝働くこと〟に打ち込んでみよう」と決意した佐々木社長は、愚痴や不満を抱くことをやめた。とにかく目の前にある仕事に集中し、「働くこと」と正面から向き合うようになったという。
■株式を上場へ
メディカルラボは2002年、業務拡大により手狭になったため、相模原市緑区西橋本に総合研究所営業本部という位置づけで移転。都内の世田谷ラボと調布ラボを集約した。
業務内容は医療機関と提携して、血液検査や腫瘍マーカー検査、在宅がん検査、食中毒検査、食材検査、NK細胞培養などの臨床検査などが主。特に新しい技術などは東北大学や東京大学、慶応大学の医学部関係者から指導を受けている。
再独立を果たした佐々木社長の判断基準は、人間として正しいか正しくないかといった「正不正」「善悪」だという。「経営も人間を相手に行う営みだから、人間としてのプリミティブ(原始的)な規範にはずれたものではないはず。人間を律する道徳や倫理に則して行われるべきだ」と話す。
「10年以内に株式公開することを夢見ている」と口調を強める。「株式公開ができなくても従業員が安心して働くことができる企業に、国や社会へ貢献できる企業にしたい」と、経営に対する情熱は尽きない。
社員教育は、来客があると社員全員が一斉に立ち上がり「いらっしゃませ」とあいさつするほど徹底している。信用の獲得が業績を伸ばしている理由かもしれない。