村春製作所、陰に隠れた“本業”の復活を目指す/精密板金加工


「傘ぽんも板金加工事業の一つ」と村上専務

「傘ぽんも板金加工事業の一つ」と村上専務

  リーマンショックで〝生死の境〟をさまよった企業は多い。

 濡れた傘を上から差し込み引き抜くだけでビニール袋に収納できる「傘ぽん」で知られる村春製作所(相模原市緑区橋本台1の32の3)の代表を務める村上稔幸専務も、しみじみと振り返る。

 「あの時、傘ぽんがなかったら、確実につぶれていた」

 高い技術力や厚い信頼関係で結ばれた得意先があっても、景気一つで奈落の底という時代。命運を人に委ねず、自ら拓くために自社製品開発を目指す中小企業は多い。

 その意味で傘ぽんのある同社は、羨まれる存在だろう。ただ、この素晴らしい自社製品が、同社にとって新たな問題を生み出していることも事実。

 同社は1965年、板金工としてならした村上専務の父、春治氏が町田市内で創業。ベトナム戦時下、米軍の無線機の筐体を手がけたことを飛躍の契機として事業を拡大。71年に相模原市大野台、84年には厚木市上依知に工場を拡張移転。90年、法人化するに至った。

 そのまま順風満帆なら、おそらく傘ぽんは生まれなかっただろう。バブルが弾け、その後国内の製造事業の海外移転が進むにつれ、同社の受注も明らかに先細り状態。危機感に苛まれながら、特許を狙える自社製品のアイデアを探し求めた苦労が、画期的な自社製品として結実したのだ。

 傘ぽんのヒットに伴い、2001年には、現在の本社工場を新設、移転した。

 ペダルを踏んでから傘を挿し込む初代が誕生して20年余。後にペダルが排除され、ずり落ちない袋が開発され、さらには折り畳み傘対応やゴミ箱兼用タイプが生まれるなど、現在も傘ぽんは進化を続けている。

 多機能タイプは時期的な変動があるものの、標準タイプはここ数年、年産3000台と安定。既に特許等の諸権利は販売代理店に譲渡し、同社は一部タイプの製造とロイヤリティに徹しているが、基幹事業の一つとして定着している。

 とはいえ、リーマンショック時の救世主ではあり得たものの、傘ぽんだけで現在の組織を維持できるわけではない。本業といえる精密板金加工事業の復活と安定、そして成長こそが今後のカギなのである。ところがだ。

 「以前から営業の必要に迫られずにきたから、リーマンショック後も“待ち”に徹していたが、あまりに仕事が来ないので得意先をあたってみたところ、どこでも『傘ぽんがあるから、余裕なのかと思い出さなかった』と言われた」と村上専務。

 同社にとって傘ぽんは板金加工の延長上にある製品なのだが、他はそうは見ない。2つの顔を認識した上での経営が求められているのだ。

 「足元に素晴らしい得意先があったことに感謝しなければならない」と謙虚に話す村上専務。

 今後は傘ぽん機能の応用製品を開発するなどしながら、精密板金加工に注力し、2つの顔を統一するのが将来目標だ。  (編集委員・矢吹彰/2015年4月1日号掲載)

…続きはご購読の上、紙面でどうぞ。