『物価の優等生』と呼ばれる鶏卵。家計にやさしい栄養食品の代表格だ。相模原市南区麻溝台で家族経営の「昔の味たまご農場」を経営する田中紘さん(74)は50年あまりにわたって養鶏業にたずさわり、生産者にとっては生き残りが大変な時代の渦中で、卵の品質向上や飼育環境の改善といった経営努力を続けて来た。「消費者だけでなく料理人の方にもおいしさと品質の良さをわかってもらっている」と胸を張る養鶏家の足跡をたどった。(編集委員・戸塚忠良/2015年12月1日号掲載)
■22歳で鶏卵業へ
満州に生まれた田中さんは4歳のとき家族とともに本土に引き揚げて来た。11歳のとき麻溝台に転入。旧陸軍士官学校の練兵場があった場所で、当時はまだトーチカと呼ばれるコンクリート製防御壁の残骸が残っていたという。
家の近くの林で栗拾いをしたのが思い出の一つだ。家の庭では母親が100羽ほどの鶏を飼っていて、仲買商が1週間に1度か2度買い取りに来ていた。
県立相原高校卒業後は日本通運に就職して車の運転に従事したが、20歳を過ぎた頃、麻溝台には養鶏場が集まるようになっていた。「戦後の復興と都市化が進んで、横浜や川崎では養鶏を続けられなくなった人たちが、空き地を求めてここへ来たのだと思う」と田中さん。22歳のときには麻溝台に30軒近くの養鶏所が集積していたという。
「これならウチでもできるのではないか」と考えた田中さんは、本格的な養鶏業に乗り出し、数年をかけて飼養する鶏を1千羽にまで増やし、飼育の形を平飼いから近代的な縦型鶏舎に変えていった。餌づくり採卵までなんでも手作業の時代だった。
■発展と難局
当時、食糧事情はよくなりつつあったが、モノが潤沢にあふれる現在とは大違い。庶民の食卓は質素で、卵は大事なたんぱく源だった。「だから、卵は生産すればいくつでも売れた。今よりは売るのに楽な時代だった。鶏糞も乾燥させれば肥料として売れた」と、田中さんは往時を懐かしむ。
経営上困ったことといえば、ひよこがなかなか卵を産まないこととか、猫やねずみに食われてしまうことだったという。
それでも飼育する鶏の数は増え、卵の生産量」も漸増して1日60キロもしくは70キロ程度にまで伸び、安定経営への道を歩むめどが立つはずだった。
ところが66年、ウイルス性感染病であるニューカッスル病が麻溝台の養鶏地域を襲う。麻溝台全体で80万羽と言われた鶏がほぼ全滅したのである。その結果撤退した大手もあり、栃木や千葉に移転した養鶏家もいた。30あった養鶏業者は激減した。
この苦しい時期を乗り切って養鶏を続けている田中さんら7軒は現在、「たまご街道」という愛称で麻溝台産の卵をPRしている。
■ネーミング秘話
田中さんは20年ほど前に鶏舎を改築して生産能力を高めた。「3万羽の飼育能力があるが、通常は2万4千羽飼育している」という。風通しの良い、四段式の鶏舎で生産しているのが、「昔の味たまご」だ。
名称通り自然で安全な品質を持つ食品である事はもちろんだが、ネーミングに込めたもう一つの思いを田中さんは次のように語る。
「戦争直後に占領軍のマッカーサー元帥が駐留先のホテルで朝食に卵焼きを食べたいと言ったとき、関係者が必死に探し回ってやっと1個探してきたという逸話がある。それほど貴重だった時代もあるということ。卵の大切さをいつまでも伝えていきたい」
■味の決め手は餌
試行錯誤を重ね自分で作り出した卵の品質保持には徹底的にこだわってといる。とりわけ、「卵の味の決め手は餌(えさ)」と強調する通り飼料には強くこだわる。「気心の知れた埼玉の友達が作っている餌を使っている。たんぱく質が多く、卵にコクが出るのと生臭さがないのが特長。鶏の健康保持に役立つオリゴ糖も配合している」と力をこめる。
また、水にもこだわり、地下40㍍から組み上げた天然の井戸水を使う。近隣に住宅や学校もあるため環境への配慮も怠らず、安全管理と衛生管理も徹底させている。2カ月に1度のサルモネラ菌検査は安全・安心を確保するための対策だ。
DMを通じてリピーターを増やし、直売所での販売も人気を集めている。ホームページではLサイズ40個千円などの価格を設定して直配の案内をしており、サンプル送付の希望にも応じている。
味の良さと品質の確かさは、一般消費者からの好評の声だけでなく、卵を素材に使うケーキ店や料理店などから安定した受注があることが示している。
「自分は淡々と生きてきたが、事業を続けられたことには満足している」と述懐する田中さん。「卵は人間の健康に良い食品」という誇りは揺らぐことはなく、昔の味たまごを残したいという思いは強い。
「今の生産量は需要とバランスが取れていると思うが、将来はどうなるか…。息子に託せば新しい工夫も出てくるのではないかと思う」と、後継者の亮さんに託す期待感を穏やかな口調で語る。