土地の分譲から建築・不動産仲介までを一貫して取り扱う山久建設不動産(相模原市中央区中央)。創業者は坂本久社長(65)。不動産仲介業として、団地の一室からスタートした同社は、今では建築や設計部門を自社に持ち、住宅に関することなら「ワンストップ」で顧客ニーズに応える企業に成長した。また、坂本社長は業界団体の役員も長く務め、今年6月には「県宅地建物取引業協会」の会長に就任した。坂本社長は、会社経営にとって、重要な要素はたった一言、「人」に尽きると断言する。同社の社業の根底にあるのは、「人は城、人は石垣」の武田節の精神だ。 (芹沢康成/2014年7月20日号掲載)
◆古き良き時代
坂本社長は1949年1月1日、山梨県東八代郡(現・甲府市および笛吹市)の駐在所で生まれた。父親は警察官で、男3人兄弟の長男。父親の転勤のたびに、県内の駐在所に移り住んでいたという。「警察官の息子という意識が強く、性格は消極的だった」と少年時代を振り返る。
時代は高度成長期の60年代。「〝巨人・大鵬・卵焼き〟と言われるように、生まれた時から巨人が好きだった」と話す坂本社長。少年時代は、日が暮れるまで夢中になって野球に打ち込んだ。
現在もプロ野球・巨人戦の年間シートを購入するほどの巨人ファンだ。
山梨県の県立韮崎高等学校を卒業後は、日本電信電話公社(現・NTT東日本)に入社。東京都立川市に移り住み、同社に勤務するかたわら、軟式野球チームに所属した。
野球の練習帰りに、当時の流行歌「ラブユー東京」が流れる商店街をチームメートと歩いて居酒屋を目指す。当時は、職場の仲間とよく飲みに行ったという坂本社長。「最近は職場でも地域でも、人と人のつながりが希薄になってきている。若い人は早く帰りたいのか、飲みに誘っても断られてしまう」と古き良き時代を惜しむ。
◆団地の一室で
電電公社に在職中から、不動産業界に関心を持っていた坂本社長。
「転職によって、民間企業の厳しさを味わった」と語る。
不動産業や工務店を遍歴し、飛込み営業なども経験。顧客一人を探す大変さ、契約を結んでくれるありがたさを痛感したという。
そして88年、不動産業者に勤めていた坂本社長は、39歳で独立を決意。宅地建物取引主任者の資格を取得し、山久建設不動産を創業した。
創業場所は、相模原市内の団地の一室だった。「従業員は、自分と事務員だけ。お客のあてもなければ、お金もない。とにかくゼロからのスタートだった」と当時を振り返る。
創業時は不動産仲介事業の1本のみ。ただ、ひたすら顧客を探して、成約を獲得することに注力した。
「サラリーマン時代に、飛び込み営業を経験していたことが活きた」と話す坂本社長。その後も、着実な経営を続け、創業から9年で自社ビル(現・第二山久ビル)を持つにいたった。
現在は自社で、分譲や建築、仲介、賃貸管理からリフォームにいたるまで、住宅に関するさまざまな顧客の要望に応えることができる体制を整えた。
◆プラス思考で
座右の銘は「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」という武田節の一節。
社長室には、自社ビル建設時に、山梨県の武田神社の宮司から贈られた書を掲げている。
坂本社長は「会社経営の重要なものは〝人〟」と強調する。各部署の責任者に、権限を委ねることで、意欲の向上と人材育成を両立させた。
また、坂本社長が長年の会社経営で学び、身につけたのが「徹底したプラス思考」だ。「何でもプラスに考え、楽しむことで自分自身が救われる」と話す。
「理想論者は目標を定めるが、思うようにいかなければ苦しい。現実と理想のギャップばかりを気にして、不満を持つことが多い。現実を受け入れてしまえば、これ以上に楽なことはない」と坂本社長。
また、「自己啓発のために、本を読み漁った」とも語る。「自己啓発は自己分析から始まり、自身の悪い部分が見えれば反省して改善できる。反省から成長が生まれる」と語る。
◆大臣表彰受賞
坂本社長は、業界団体の活動にも注力。06年に宅建協会相模原北支部長に就任し、08年から県宅建協会副会長、同年から全国宅建協会(全宅連)の理事を務めた。そして今年6月には、県宅建協会の会長に就任した。
昨年7月、こうした活動が評価され、「国土交通大臣表彰」を受賞した。「業界の振興に寄与し、公共の福祉の増進に貢献したこと」を理由に、全宅連の推薦を受けたものだ。
現在は、県宅建協会の会長として、精力的に全国を飛び回る。
かつての野球少年は、人材を活かし、会社というチームをけん引し続ける一方、業界全体の振興にも力を注いでいる。