機械部品の加工や各種機械の製造を行うアルファ技研(相模原市中央区田名塩田)の五十嵐四郎社長(69)は、「人は大事にしなければならない」と話す。1945年4月10日、新潟県魚沼市の農家に生まれた。家が貧しく、手に職を付けようと選んだ道は「集団就職」だった。後継者の育成に追われながら、スポーツ少女の指導者も勤めた。金属加工一筋で約55年。アスリート社長は現在も走り続けている。(芹澤 康成/2014年8月20日号掲載)
■金の卵で上野へ
現在は1カ月に3~4回、ゴルフをプレイする五十嵐社長。中学生の頃は野球に熱中していた。ポジションは主に三塁手だった。
バットやグローブなどの道具をはじめ、ユニフォームも揃わない当時を思い出し、「今でこそ田舎の暮らしに憧れる人もいるが、昔の田舎暮らしは酷かった」と苦笑する。
足も速く、短距離走(100m、200m)の選抜選手にも選ばれたという。「授業が終わると、大会に向けた強化練習に明け暮れた」と振り返る。
時代は高度経済成長期。中学校を卒業した15歳の五十嵐社長は、集団就職列車に乗り上京。いわゆる〝金の卵〟として上野駅に降り立った。「右も左も分からず不安だった」と話す。
■仕事と勉学両立
就職したのは、横浜市保土ケ谷区の金属加工と部品組み立てを行う会社だった。入社から4年間は、フライス盤や旋盤などの機械による作業を担当した。
「会社が何をやっていて、いくら給料をもらえるか分からなかった」と不安だったが、定時制高校に通うことができるという条件で入社を決めたという。
高校では機械科に入学。4年間、機械設計を学んだ。卒業後は会社でも設計を任せてもらえるようになった。
五十嵐社長は「全日制の高校に通う同級生に絶対負けたくない」という気持ちだったという。「学校で学んだことは、実社会に出ると役に立たない」と力説する。
独立を決意したのは、入社から約8年後のことだった。開業資金を貯めることと勉強のため、2~3年アルバイトとして設計業務に携わった。
■スポーツ振興も
1974年9月、川崎市麻生区で「アルファ技研」を設立。木造平屋建て15坪の工場を借り、社屋とした。当初は五十嵐社長1人で、各種装置の設計から組み立てまでを行っていた。
相模原市南区に移転したのは1981年1月。従業員も7人に増え、事業を本格化。同社は、「株式会社アルファ技研」に名称を変更した。
30代半ばからは、本業の傍らで少女ソフトボールチームの指導にも当った。高知県で開催された第1回小学生女子ソフトボール大会では、本県から優秀な選手を発掘し、団長として代表チームを率いて出場した。
その後、相模原市ソフトボール協会の副理事長、神奈川県少女ソフトボール連盟の副理事長を歴任した。かつての野球少年は、数多くのスポーツ少女の育成も果たした。
■誠実さで躍進を
1994年12月、現在、本社工場を構えるグリーンピア田名内に移転。念願だった自社工場を手に入れた。
五十嵐社長は「工業団地の各企業は移転間もないこともあって、自社内の業務に追われていた。他社との交流の機会もなかった」と進出当時を振り返る。
現在では、自社が居を構える同団地協同組合の理事長、テクノパイル田名工業団地協議会の会長も勤めている。
同協議会では、立地企業が協力して共通課題の解決や異業種間の交流を深めて、工業団地と立地企業の発展を目指して活動を行っているという。
「今後は共同研究や共同受発注、福利厚生事業の実施、防災体制、交通問題の解決、環境整備などを主要事業として活動していく」と話していた。
五十嵐社長は「仕事に限らず誠実でなければならない。素直でいい人間なら私生活で破綻することもないし、相手の信用を得られる仕事もできる」と強調した。
今年12月、グリーンピア田名内に工場を構えてから20年目を迎える。25年には同工業団地内に新工場を取得し、部品加工部門を強化した。従業員は16人となり、躍進を続けている。