ヘルスケア、医療器具滅菌で成功/「山びこ学校」の教え忘れず


ヘルスケアを創業した川合会長

ヘルスケアを創業した川合会長


 県北地域の健康・福祉増進の一翼を担う企業が、相模原市中央区横山にある「ヘルスケア」だ。創業者の川合貞義会長(78)は「ある程度、経営が落ち着いてくると、苦労は良い思い出になった」と半生を振り返る。1935年、山形県の雪深い山村・山元村(現・上山市)に六男一女の3男として生まれた。農山村の生活に密着した教育を行った、無着成恭氏から「運動神経は校内一発達している」と寸評された。子息へ会社継承も順調に進めた川合会長は、今でも「山びこ学校」の教えを忘れていない。(芹澤 康成/2014年9月20日号)

 ■師2人と出会う

 川合会長は、山元中学校に入学し、新任教員として赴任してきた無着氏に3年間指導を受けた。その教育手法は「山びこ学校」とも言われ、児童に生活を具体的に見つめさせる指導(生活綴じ方)だった。「山びこ学校」は映画にもなり、無着氏はその後、「全国子ども電話相談室」の回答者を28年間務めるなどした。

 「国語の教科書に〝クリ〟という言葉が出て来ると、実際に山へ入って教えてくれた。当時としては少ない、バイタリティに溢れた先生だった」と六十数年前を振り返る。

 「スポーツなら何でも好きだった」と話す川合会長は、郡内でトップ10に入る脚の速さだった。高校時代にバスケットや陸上、卓球などの助っ人として出場。運動会でも主将を務めるなど、リーダーシップを発揮した。

 桜美林短大の英語英文科に入学した。面接を担当した創始者・清水安三氏は、「山びこ学校」の出身者だと聞くと、その場で合格を決めたという。

 はじめは寮住まいで、生活費は警備員をして賄った。後に、清水氏の長男・泰氏の家に書生として住み込むことになった。医者の泰氏が往診する時のかばん持ちと、その息子の勉強を見ることが条件だった。

 夢は父親と同じ教職で、卒業後も諦めきれずに亜細亜大学商学部に編入。英語と社会、商業の教員免許を取得した。

 ■医療用品を販売

 卒業後は清水氏の勧めもあり、病院向けの衛生材料を扱う東京衛材研究所(現・アルケア)に入社。企画や営業として4年間務めた。大きなスーツケースにサンプルを詰めて、全国の国立病院や大学病院を回った。

 見合い結婚したのも営業マン時代だった。相手は泰氏の妻の従姉妹に当たる女性で、会長を支え続けてきたマリ子さんだ。

 「慣れない自転車に重い商材を積み、何回も転びながら納品を手伝ってくれた。苦労ばかりかけてきた」と、妻への感謝の気持ちを示した。

 独立を決意したきっかけは、自分で仕事がしたいという意向が固まったことだった。北里大学が相模原に病院を開設する話も背中を押した。

 64年、相模原市に医療機器の販売を目的として、相模商会を設立。6畳に机2脚、書庫を1架置いた事務所に、妻や義兄夫婦らを合わせた5人でスタートした。

 中古で買ったライトバンに乗り、病院があればどこにでも飛び込んだ。契約がとれるまで帰らないと決めた営業は、約10年間続いた。

 文庫版の「山びこ学校」を名刺代わりに配った。それが商談の糸口となることもあり、同書が物心両面の支えだった。

 当時の主力商品は、衛生材料や医療小物など。医療用具や鋼製小物(メス、ピンセットなど)の注文も少しずつ増えていたが、現金払いの仕入れに苦労した。

 「それを知った仕入れ先の社長が代金は1カ月後まで待ってくれた。40年間仕事を続けられた裏には、こうした温かい援助があった」と、川合社長は言う。

 ■滅菌業務で成功

 82年にグループ会社、レントゲンフィルムの販売・現像を目的に北相サプライを設立。86年、北里大学病院から東病院の設立にあたり、中央材料滅菌室の業務委託計画の話を提案された。

 業務の内容は、手術や治療、検査などで使用された医療器具・機材を洗浄、消毒・滅菌を施し、次に使う目的に応じてセットを準備するもの。鋼製小物をすべて買い取ることで、器具を無料でレンタルし、欠品を補てんしていく契約だった。

 民間企業が同業務を請け負うのは、わが国で初めての試みだった。業務は軌道に乗り、看護学会でも発表された。成功例は全国に知れ渡り、市民病院の業務委託も受注するなど、業界の草分け的存在となった。

 90年代後半、国が計画していた介護保険を受け、介護用品への関心が高まっていた。厚生労働省から委託を受け、県の介護保険モデル事業者となる。

 ■長男へ会社継承

 02年、相模医療工業がヘルスケアを吸収合併し、現在の「ヘルスケア」が誕生した。業務が重複していたことに加え、仕入先や顧客もほぼ同じだった。合併することで、事務処理を合理化することに成功した。

 会長職に退いた川合氏は「企業は、長く経営することが一番の社会貢献になる」と口調を強める。今後、「元気なうちはいろいろなことに挑戦したい。先生に師事を仰いで、茶道を習いたい」と話していた。

 「人の喜びを喜びとし、人の悲しみを悲しみとできるような人間になれ」と言われた川合会長は、感謝の気持ちを忘れない経営方針で、50年続く会社の基礎をつくった。

 06年に長男・靖一氏へ社長職を引き継いだ今、第二走者となったヘルスケアは、次の節目へ向けて前進している。

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